William Burroughs

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ウィリアム・バロウズ(William Burroughs)
ギンズバーグギンズバーグがジャック・ケルアックと知り合って意気投合したばかりの頃に、2人で(こちらも知り合って間もない)バロウズの家に遊びに行き、その本棚を見て衝撃を受けたというエピソードが残っている。ギンズバーグは17歳、ケルアックは21歳、そしてバロウズは29歳。豊富な読書量と明晰な頭脳を持ち合わせた年上のバロウズは、彼らにとって数少ない理解者であり、兄貴分であり、先生であった。バロウズは、若き日のギンズバーグやケルアックに文学や思想のことを教え、ときに本を与えたという。
ウィリアム・シュワード・バロウズ。その名は、発明家であった祖父の名前をそのまま受け継いでいる。祖父はキャッシュレジスターの原型となる技術を発明し、社名をバロウズ加算機社と改名。いわばそこの御曹司にあたるのが、作家バロウズである。1914年、セントルイス生まれ。幼少期から病気がちで神経質、内向的な子供で、かなり早い段階から作家を目指していたらしい。高校生の頃、自身の同性愛的傾向に気づく。最初に入った大学では英文学、次に入った大学では医学、そして大学院では考古学を学ぶが全て挫折。軍隊入りを志望するも不合格、のちの仕事も、コピーライター、工場勤め、私立探偵、バーテン、害虫駆除員、故買屋などを転々としていた。既にその頃には麻薬にも手を付けていた。一貫していたのは、いわゆるインテリで、プライドが高かったことくらいだろう。
そんなバロウズが作家として名を上げたのが『裸のランチ』の出版である。1952年、自伝的処女作である『ジャンキー』の出版が決まったとき、かれは妻の射殺(ウィリアム・テルごっこ事件。妻の頭にりんごを乗せ銃で撃つ遊びをしていて誤って殺害してしまった)で獄中の身であった。1953年に『ジャンキー』が出版、保釈中にメキシコを脱出したバロウズは、幻の麻薬イエージを発見すべくコロンビアへ。帰国後の1957年に執筆を開始したのがこの『裸のランチ』で、完成したものをその年パリにいたギンズバーグに送っている。ギンズバーグが各所へ売り込むもことごとく失敗。数年ののち、抜粋が掲載されたアングラ雑誌を見て、オリンプア・プレスからの出版が決定。そのセンセーショナルな内容から、ギンズバーグ『吠える』、ナボコフ『ロリータ』、ヘンリー・ミラー『北回帰線』などと同時期に猥褻文書として裁判沙汰になったことが、結果的に売り上げに大きく貢献した。
バロウズを語る際に最も頻出する「カットアップ」という手法も、この『裸のランチ』で初めて使われたものである。以降『ソフトマシーン』『ノヴァ急報』『爆発した切符』の「カットアップ3部作」を書き上げるに至るわけだが、その最大のきっかけとなったのが、タンジールでのブライオン・ガイシンとの出会いであった。
ブライオン・ガイシンは「文学は絵画より少なくとも50年は遅れている」といい、もともとは美術の手法であった「カットアップ」や「フォールドイン」を文学に応用することをバロウズに勧めた。既にある文をでたらめに切り刻み、新しく繋ぎ合わせてまったく別の文を生み出す方法が「カットアップ」で、それと同様の効果を生み出すのに、紙を折って重なった部分を使うという方法で省力化したのが「フォールドイン」である。ガイシンと意気投合した(後にパリにて共同生活を始める)バロウズは、これらの手法に没頭していく。そしてこうして書かれた作品はティモシー・リアリーをはじめとして、様々な作家、芸術家、ミュージシャン(特にミック・ジャガー、デヴィッド・ボウイ、ルー・リードなどのロックミュージシャン)がその影響を認め、次々とバロウズ礼賛の声をあげるようになる。
ジャンキーで同性愛者で、気持ち悪くてだらだらと長い意味のわからない小説を書いているが、なぜか熱狂的な信奉者もたくさんいる、頭のおかしな作家――バロウズについての理解は大抵そのようなものだし、それは大方間違ってはいない。実際のところは「カットアップ3部作」以降の作品では比較的物語的な手法に戻り、『シティーズ・オブ・レッド・ナイト』などは一般的な指示も得た。しかし、ぼくらが憧れる(あるいはまったく憧れることのない)ヒップスターとしてのバロウズは、どちらかというと前者だ。切り取って並べ替えることに没頭した、頭のおかしな言葉の魔術師。バロウズの狂った実験の結果は、当時のストリートのリアルな姿を、今なおぼくらに力強く叩きつけるのである。
関連人物:アレン・ギンズバーグアレン・ギンズバーグ
文・内沼晋太郎


