Jack Kerouac

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ジャック・ケルアック(Jack Kerouac)
バロウズバロウズの小説は比較的長めのダラダラと続くスタイルで書かれていたが、タイピングは2本指で、あまり上手ではなかったという。ところがケルアックは、タイピングに対しては随分こだわりを持っていた。テレビ番組「スティーヴ・アレン・ショー」に出演したときケルアックは、散文はテレタイプ用のロール紙に書き、象徴的・印象主義的な詩は鉛筆で書く、と自ら告白している。
ロール紙に書くのは「思い浮かぶことを続けて書きたいから」(※1)。代表作の『路上』は7年間に及ぶ旅を描いたものだが、書くのにかかったのはわずか3週間だという。
ジャック・ケルアックは1922年、マサチューセッツ州ローウェルの、フランス系カナダ移民の家庭に生まれる。高校の頃はフットボールで大活躍、コロンビア大学へ奨学生として入学する。しかし思うように行かず、その後海軍に入隊。除隊後、ギンズバーグやバロウズ、ニール・キャサディらと次々と出会い、彼らとの交流を通して、若い頃から抱えていた文学への情熱を再燃させる。トマス・ウルフの回想録『THE TOWN AND THE CITY』でデビューする。しかし特に評判を得ることができずに、キャサディと共に旅を繰り返すようになる。その旅の日々を描いたのが『On The Road』――『路上』である。
このケルアック『路上』とギンズバーグ『吠える』の出版とその成功が、ビート・ジェネレーションがひとつのムーブメントとして認識されるに至る、最も大きな事件のひとつであった。多くの若者の共感を得て、60年代に入るとカウンター・カルチャーのバイブルとして称えられ、その後に続くヒッピーやサイケデリックスなどへも多大なる影響を与えた。しかしまさに「路上」から小さな身体で生身の声を張り上げていた彼らにとって、その成功のあまりの大きさは困難でもあった。特にケルアックは続々と著作を出版しながらも、自身はアルコールに溺れていった。グレゴリー・コーソは「メディアや広告代理店がジャックを葬ろうとした」のだと話している(※1)。
1969年、47歳の若さでジャック・ケルアックはアルコール中毒を原因にこの世を去った。1年間ほどほとんど外出しなかった晩年のケルアックのことを、ジャック・マクリントックは「一層深く己の人格の内部を掘り下げ、人生の歓喜と破壊物が山と積まれた所へ帰ってゆき、そこで振り返り、彼の掘ったトンネルを通して混み合った世界を覗いていたかのようだった」と書いている(※2)。また晩年のケルアックが、フラン・ランズマンに「カトリックで自殺できないから酒におぼれて死ぬんだ」と言っていたこと、スパイク・モリセット牧師に「地獄より天国に関心がある、アイディアを得るためにはハイじゃないと」と話していたことが、それぞれ告白されている(※1)。ギンズバーグはケルアックの死のニュースを受けた同日、イェール大学で追悼のリーディングイベントを開き、ケルアックの好きだった「ダイアモンドのスートラ」を読んだという。
ギンズバーグがビート・ジェネレーションの精神的な中核、リーダーであったとするならば、ケルアックはビート・ジェネレーションが生んだ最大のスターであった、ということができるだろう。1982年、ギンズバーグやバロウズ、コーソやファーリンゲッティをはじめ、当時の役者が勢ぞろいしたひとつの会議があった。『路上』の出版から25年を記念して行われたその会議の名は「ジャック・ケルアック・カンファレンス」――死後それだけ経った後も消えることのない彼の存在の大きさを、この会議は物語っていたといえるだろう。そしてこの2006年の日本でも未だなお『路上』が若者たちに読み継がれているのだから、その影響力は計り知れない。
※1:リチャード・ラーナー(監督)『Kerouac ―― ケルアックに何が起こったのか?』
※2:ジャック・マクリントック「かくして旅は終えたり」『ビート・アルバム ケルアックと仲間たち』(思潮社)所収
文・内沼晋太郎


