Boris Vian


Hipsters file 16
ボリス・ヴィアン
ジャン・コクトーが出入りしていたサン・ジェルマン・デ・プレ界隈で、ボリス・ヴィアンは「プリンス」と称された人物だった。そこは第二時大戦直後の開放感に溢れた気風のパリで、「ペル・エポック」時代のモンマルトル、「エコール・ド・パリ」全盛期のモンパルナスに続き、多くの知識人や文化人の溜まり場となっていた。ヴィアンはまさにその中心で最も騒いでいた人物のひとりであり、自らをまったく棚に上げた形でその界隈と人々とを紹介した『サン=ジェルマン=デ=プレ入門』を記した人物であり、そして何より『日々の泡』や『北京の秋』デ知られる作家であり、と同時にトランペット奏者でもありシャンソンの作詞作曲家でもあり公務員のエンジニアでもある、類稀なるマルチな才能をもった人物であった。
1920年、パリ南西のヴィル=ダヴレーに生まれたヴィアンは、幼少期はパリで裕福に育つ。しかしのちの世界恐慌の影響で一家の経済状況は悪化。ジャズに興味を持ち、トランペットを吹き始めるようになる。1939年には名門の国立工業グランゼコール、エコール・サントラルに合格。土木技師の学位を取得し、フランス標準化協会に就職。第二次世界大戦中も心臓疾患のために徴兵を免れ、暇な仕事を得たヴィアンは仕事もそこそこに、ジャズの演奏をしたり観にいったり、小説を書いたりしながら日々を過ごした。
アメリカのハードボイルド小説が流行していた当時、翻訳するよりも自分で書いたほうが早いと、ヴァーノン・サリヴァンという偽名で『墓に唾をかけろ』を短期間で執筆する。これがヒットすると同時に、その内容の過激さゆえに裁判沙汰に発展し、より話題性に拍車をかけ同名義で他にも3作を発表した。またヴィアンの名で書かれた『日々の泡』『北京の秋』などの代表作も、暇を持て余していたこの頃に書いたものだ。1946年、プレイヤード文学賞を狙って『日々の泡』を発表した直後、ヴィアンは退職し文筆業に専念することになるが、残念ながら賞を取ることはできなかった。また、アメリカへの関心を常に抱き続けたヴィアンは、フランスへのレイモンド・チャンドラーの紹介者として、『大いなる眠り』『湖中の女』の翻訳も行った。
サン・ジェルマン・デ・プレ界隈が「実存主義」の街として、多くの知識人や文化人の溜まり場となっていたのもこの頃であり、「プリンス」たるヴィアンはその後『サン・ジェルマン・デ・プレ入門』を書きはじめる。現在日本で発売されている本書の帯には、その時界隈に集まっていた人々の名前が列挙されている――「サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス……そしてヴィアン!」。しかし本書は結局、出版社の倒産により(倒産させたのも、売れない本を出版させたヴィアン本人なのであるが)この本は彼の生前に発売されることはなかった。
ヴィアンは生まれながらに心臓が弱く不整脈に苦しんでおり、短命を予感していたという。1959年6月23日、映画化された『墓に唾をかけろ』の試写会に訪れたヴィアンは、急な心臓発作に見舞われ、病院へ搬送される途中に息を引き取った。享年39歳。トランペット奏者としては致命的な欠陥を抱えつつもジャズにまみれ、そしてあらゆる方面で多彩な才能を発揮した彼は生涯、それほど大きな評価を得ることはなかった。しかし後年のサン・ジェルマン・デ・プレの仲間たち――サルトルやボーヴォワール、コクトーらが強く促したことで、再評価の兆しが高まり、今では全ての作品が全集として刊行されている。特に50年代から70年代にかけては反体制や革命を訴える若者たちの愛読書として広く読まれ、今もなおその影響は脈々と受け継がれている。
文・内沼晋太郎


