(残念ながら、TOKYO HIPSTERS CLUBは、誰にでも似合う便利なファッションではない。
以下、我々が考えるT.H.Cの定義について。)
物事の表層だけを模倣し、誰かを演じ、装うことはたやすい。しかし、外見を真似てみたところで、それは何の意味も持たない。もちろん、世に言うファッションというものの本質が「装うこと」誰かや、何かを演じてみせるという行為だと言うなら、それもいいだろう。だが、キース・リチャードの格好をしたミュージシャン志望者たちが、ひどくみすぼらしく見えるように、他人を装うことは貧しく、寂しい。ネイティブ・アメリカンの説話にジャンピング・マウスという鼠が出てくる。何の変哲もない集団の中で育った彼は、ある日ゴーゴーという唸りを聞く。その正体を見つけるために旅に出た鼠は、やがて、偉大なる河の存在を知る。出会った蛙に促され、思い切り跳躍した彼は、遥か彼方の聖なる山を見た。盲目のヴァッファローに右目を、聖なる狼に左目を与え、旅は続いて行く。いつか聖なる山の頂に達した盲目の鼠に、誰かの声が聞こえる。「高く、高く、飛び上がるんだ、そして、下を見てみろ」その時、飛ぶことなど出来るはずのない鼠の躯は上へ上へと浮遊する。二度と見えるはずのない眼を開くと、眼下にちっぽけな街が見える。その時、もう一度、どこからともなく、誰かの声が聞こえて来た。「お前は新しい名前を持った。お前の名は、イーグルだ」旅を続けること、すべての先入観を排除して走り続けること。自らの見聞を深め、絶えず新しい可能性への扉を模索すること。ジャンピング・マウスの物語は、外観に対する示唆に富んでいる。最初から、鼠がいて、狼がいて、イーグルがいるわけではない。我々は、内なる品格に相応しい外観を、いつか手に入れるのである。最初に内面あるべし、信ずるに足る装いを身に着けたとしても、残念ながら、そのままイーグルの外観を持つことは出来ないだろう。しかし、軽佻浮薄な時の流れに身を任せることに疑問符を抱き、いつまでも変わらない本質について考える鼠たちに、黄金の羽根を一枚、そっと差し出すことは出来るはずだ。眼に嵌められた二つのルビーを、剣の柄に飾られたサファイアを、きゃしゃな身体を覆い尽くしていた黄金を失ってしまった時、鉛の心臓を持った灰色の塊にしか過ぎない幸福の王子は、誰よりも、美しく、幸福な輝きを放っていたに違いない。国中の誰よりも秀でた外観とファッションを求めた王が、流行という名の詐欺師たちに囲まれ、踊らされながら、やがて、裸のまま誇らしげに街を歩き回る物語は、そのまま、装い=ファッションの本質を言い当てている。「王様は、裸だよ」、そう認識し、叫ぶことができたのは、風と遊び、太陽を友とする、天真爛漫な子供たちだけだった。着飾れば着飾るほど、裸の王様になって行くジレンマの中、もう一度、自分自身の内面について、しばし考えてもらいたい。変わり続ける軽佻浮薄な流れに身を任せることなく、いつまでも変わらない普遍的なものの価値に真価を見出すこと。その時はじめて、日本の「洋」服は、西洋という拡張子を逃れ、自由な身と心を包む、尊厳に満ちた輝きを放ち始めるはずだ。千枚の羽根を身に付けたところで、鼠はイーグルにはならない。しかし、千の眼を持ち、自らの尺度と生きる叡智を手に入れた時、いつかちっぽけな鼠は、イーグルの外観を持つだろう。ジャンピング・マウスの説話を、幸福の王子の鉛の心臓を、ジャック・ケルアックの旅の続きを、チェ・ゲバラを、ジャン・ミシェル・バスケアを、アレン・ギンズバーグを、ウィリアム・バロウズを、「路上」をポケットに入れたジャニスを、ボブ・マーレーを、ジミー・クリフを、ジョン・レノンを…。彼ら大いなる精神たちの旅路に自らの旅を重ねる時、人は心の中に、黄金色に輝くイーグルの羽を見つけるはずだ。跳躍への勇気を鼓舞することはたやすい、箴言は路上に転がっている。しかし、袖を通した一枚の服がどう見えるか、何を語るのか。その一点はすべて、あなた自身の内面に委ねられている。「どう着こなすかではなく、どう生きるか、である。服はいつも、人の生き方に従い、ついてくるだろう。」