John Sinclair


ジョン・シンクレア。詩人であり、パンクの元祖とも言われるロックバンド、MC5の論理的方向性を示唆し、反政府活動グループ、ホワイト・パンサー党※1の党首だった男。1本の大麻煙草を所持していたというだけで懲役100年の実刑を受け刑務所に服役するも、ジョン・レノンが無罪釈放を訴えるプロテスト・ソング“John Sinclair”を発表して救済コンサートを開催、その3日後に釈放された男。
そんな伝説の男が来日、6月28日に、“68”展のプレ・ショーという形で、音楽評論家の鳥井賀句氏を聞き手とするトークショーが開催された。
時折、質問と外れた方向に話が飛びながらも、当時の様子がリアルに窺える貴重な一夜となった。
まさか来日する日が来るとは思いませんでしたが、今日はジョン・シンクレアさんをお迎えできて、大変嬉しく思っております。
ここに来ている方々は、彼のことはある程度知っていると思いますが、簡単に説明させて頂きます。
彼は、70年代にアメリカのデトロイトから出て来て、元祖パンクなどと言われたこともあるMC5というバンドのマネジメントと言うか、方向性を変えたりした人です。また、ホワイト・パンサー党という、すごくポリティカルなメッセージ性を打ち出していた当時の集団のリーダーだった人です。そして、わずか数本のマリファナ所持のためにアメリカ政府から目をつけられて投獄されたこともあります。それを聞いたジョン・レノンが非常に怒り、デトロイトで、スティービー・ワンダーとか、アレン・ギンズバーグとか、いろいろなバンドとか、詩人の方を呼んで、彼を釈放しろというコンサートを開催し、それがすごく大きな輪となって、そのわずか3日後に彼は釈放された。そのような経歴の持ち主です。
その後、彼は、ニューオーリンズに住んで、ニューオーリンズ・ミュージックやブルース・ミュージックの研究をしたり、詩人として詩を詠んだりしていましたが、今はアルステルダムに住んで、インターネットでフリー・ラジオ放送局を立ち上げ、いろいろな音楽を流し、いろいろな話をしたりしている、そのような活動をなさっています。
では最初に、ロック・ファンの方が多いと思うので、MC5と彼らの時代のことについて聞いてみたいと思います。
あなたは最初、ジャズの評論家として活動していて、なぜ、ロック・バンドのMC5をプッシュしていこうと思われたのですか?
- John Sinclair
1966年のことですが、6か月間投獄された後に8月に釈放され、初めてMC5を聴くチャンスがあったのです。実を言うと、彼らが僕の住んでいた近所に引っ越して来たのです。その年の10月に、ロックに合わせて楽しみたい、葉っぱを吸いながらLSDもやりたいといった、そのような若者たちが集う、グランディ・ボールルームというライブハウスが近所にオープンしたのですが、MC5はそこの専属バンドで、毎週金曜日か土曜日、地元のバンド2〜3組と一緒に、ずっとそこで演奏していました。
僕も毎週、金曜と土曜、必ずそこにいたので、常時彼らの音楽に接し、魅了され、刺激され、どんどんと彼らとの関係を深めていった。そのような経緯です。
当時、あなたやMC5のメンバーで大きな家を借りて、コミュニティのような集団生活をしていたと聞きましたが、その当時の共同生活の話を聞きたいのですが。どのような感じだったのですか。ガールフレンドの取り合いとか、しなかったのですか?(笑)
- John Sinclair
MC5が登場する以前から、デトロイト・アート・ワークショップという芸術家集団が既にあって。詩人とかジャズ・ミュージシャン、16ミリのカメラを使ったフィルム・メーカー、アーティスト、写真家、このような人たちが、このデトロイト・アート・ワークショップに在籍していました。本当にボヘミアンな奴らが出入りする駐在所と言うか、大使館と言うか、そのように芸術的な趣向を持っている人たちが集まれる唯一の場所だったのです。
当時、僕らは本当にお金もなく貧乏で、違法とされていたドラッグをやったりとか、当時のメインストリームとは全く違った音楽を始めていて・・・結局、世間の波に対抗するには団結する必要があって、このような組織が出来たわけです。
ひと月50ドルくらいで一軒家を借りて、共同生活がはじまっていきました。電気代は月20ドルくらい、電話代は25ドルくらい。責任者として請求書を払う責任を負っていたから、この金額はよく覚えています。2階建ての家を隣同士で4軒くらい借りて。一軒当たり12人くらいいたかな。バンドは地下で練習したりしていましたが、お互い尊敬していたし、ピースとラブが本当に満ちたコミュニティでした。質問にあったような女の子の奪い合いというのはなかった。基本的には、お互いに共感して、お互いのことを受け入れられた。お互いを愛していたからこそ、そのような共同体というのが組めたのです。
まずは1軒を借りることから始めて、周りの若いやつらも僕らのやっていることに共鳴して徐々にコミュニティが広がり、最終的に6軒にまで膨れ上がり、それとは別にアーティストワークショップの事務所を構えることもできた。コミュニティだけでも100人くらいになりました。

MC5と言うと、一般的には元祖パンクとか言われますが、MC5が当時のバンドの中で二つの傑出したことがあるとすると、一つは、パンクと言うよりも、当時としては早くからミクスチャー・ロックみたいなことをやっていた。ジャズも、ブルースも、チャック・ベリーも、あらゆるブラックミュージックを分け隔てなく、ロックと融合させようとしたという点。
もう一つは、具体的に政治的メッセージを歌うというより、アメリカ国旗に火をつけて燃やしたり、シカゴの民主党大会に出て行って演奏したり、いわゆる政治的な運動とコミットしながらロックバンドとして活動していたという二つの点があると思います。
そのような方向性は、かなりの部分で、あなたが彼らに方向付けたというように考えてよろしいのでしょうか?
- John Sinclair
そうですね。僕が中心になって、基本的にはマネジメントという立場で。コンサートの企画を立てたりとか、詩の朗読会とかも企画したりとか。かなり中心にいたことは間違いないですね。
ブラックミュージック、特にブラックアメリカ。アメリカの黒人の側面、ブラックアメリカから受けた影響というのは本当に計り知れない。それは文化もそうだし、音楽の影響も受けた。僕らは皆、マルコムXのことを尊敬していた。ブラック・パンサー党※2の掲げていたマニフェストも、将来のビジョンに満ちていて、非常に惹きつけられました。白人の中で僕らが唯一信用していたのは、ビート世代の人たち。ジャック・ケルアックとか、アレン・ギンズバーグとか、ウィリアム・バロウズ。そのような人たちだけを唯一信用していましたね。その後、64年から65、66年あたりになってきて、皆さんご存知のビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ヤードバーズ。その後有名になる彼らが出て来て、僕らも彼らの音楽やメッセージに非常に共鳴しました。MC5がデトロイトのグランディ・ボールルームでデビューしたときもそうです。
そして、MC5を単なるバンドではなく、MC5を率いてポップ・ミュージック・シーンの中に、切り込んでいってやろう。ロック以上の存在としてブラック・パンサー党の支持というのを明快に打ち出して、ベトナム反戦というのも高らかに宣言しよう。MC5の音楽を通じて、消費社会に対して、単に受動的な消費者として音楽を消費するだけではなく、このような運動に参加しているのだよ、という気持ちを若い人たちに植え付けたい・・・・このような、壮大な夢が僕の中にはあったのです。
政治的な主張をMC5と共に打ち出していく中で、1968年のシカゴでの民主党大会と同時に開催された反戦コンサートに出演したりする訳ですが、民主党大会でのデモによって逮捕されたシカゴ・セブン※3は、イッピーと呼ばれたヒッピーのもっと政治的な人たちが中心でした。
あなたにとって、彼らとの関わりはどのようなものだったのでしょうか。また、彼らを総括して今はどのようにお考えでしょうか。
- John Sinclair
まず、シカゴ・セブンではなく、ブラック・パンサー党党首のボビー・シールを加えたシカゴ・エイトと訂正させて下さい。
イッピーが表舞台に登場したのが68年の1月で、僕らは彼らの存在を知るなり、彼らの政治的なメッセージ、対抗文化のメッセージに本当に共鳴し、感動したのを覚えています。最初、イッピーが出て来たとき、僕が知っていたのは、シカゴ・ローリング・ストーンズと言われていたバンド、ファッグスのレッド・サンダーズ。彼が出てきたとき、僕らは本当に感動して、僕が真っ先に彼に連絡し、「デトロイトにいるから、一緒に何かやろうよ」って言って、そこから関係が始まっていきました。このとき、既に僕はMC5のマネージャーでした。
最初のイベントが、68年、シカゴの民主党大会。イッピーが、民主党大会に行ってひと騒ぎ起こすことを宣言したとき、自分もMC5と、もう1個のバンド、アップを連れて行くと伝えました。
そのフェスティバルライブで大きく掲げていたことは、大規模なロックコンサートを開くということ。翌年、ウッドストックで開かれることになりますが、ウッドストック以前に大きなロックコンサートを開きたい、フリーコンサートを開きたい、というのは、ひとつの大きな目的だったわけです。
それと同時に、僕らは、当時の政権だった民主党に反対だというメッセージも伝えたかった。当時継続していた、ベトナム戦争に反対するメッセージも非常に大きく伝えたかった。
そのような目的があって、錚々たるメンバーが出演予定だったのですが、結局、会場の許可が下りず、警察も随分と表に出て来るようになっていたこともあって、多くのバンドが出演しないことになってしまった。MC5は、その時点ではまだデトロイトの地元バンドにすぎなかったのですが、そのフェスティバルの意図に賛同し、ぜひとも参加したい、デトロイトに住んでいるので警察とかにも慣れているから、警察が何を言おうが関係ねぇ、ということで、最後にはMC5だけが残った。そのような経緯があるのです。
68年当時のときは、まだ、皆、団結していた。反ベトナム戦争で団結していた。黒人に対する弾圧に反対するということでも団結していた。マリファナを合法化させようという運動でも団結していたのです。だから、当時は、ヒッピーにしろ、ロックンロールバンドの連中にしろ、皆、ひとつの同じことを信じていた。同じ思想を共有していました。
ただ、MC5がそのような多くの人たちと違っていたことは、単に音楽をやっていただけではなく、そのような思想を行動に移していった。そこが多くのヒッピーやロックバンドとMC5を分け隔てた違いだと言えると思います。彼らは本当に自分の言っていることに対して誠実であったし、自分のそういった思想に対しても正直だった。
当時の僕らとしては、音楽にしろ、アート、芸術にしろ、当時のアメリカが象徴していたものに真っ向から反対していたので、僕らの中では、自分たちがやっていたこと、音楽にしろ、芸術にしろ、日々の暮らしにしろ、自分たちの思想と行動の間には全く矛盾がなかった。本当に言行一致していたのです。

60年代末には、ヒッピーとか、イッピーが団結して、文化革命というか、新しい世界を夢見ていたわけですよね。ウッドストックもあります。そのようなカウンター・カルチャー的な運動が、70年代に入ってからなくなってしまったことについては、どのようにお考えでしょうか。
MC5も、2枚目、3枚目と出していく過程で、ロックスターっぽくなっていって、あなたの最初の方向性とかなり離れてしまったように感じられますが。
- John Sinclair
ではその前に、68年と69年のことをもう少し話させて下さい。
MC5はエレクトラから(ファースト)アルバムを出すことになる訳ですが、ホワイト・パンサーとしては、69年の6月までMC5の存在は機能していました。当時の僕たちのマニフェストは、ブラック・パンサーに対する権力による弾圧に反対する。もうひとつは、当時の僕らが本当に尊敬していたマルコムXが掲げていた、自分たちの道は自分たちで切り開き、自分たちの生活を自分たちの手に取り戻すこと。そのような思想には、ジャズ・ミュージシャンのセシル・テイラーとか、オーネット・コールマンとか、ジョン・コルトレーンも共感していて、確かにレコードという消費社会における消費財を生産していたのだけれど、労働の成果を、大手レコード会社やメディアから取り戻そう、ということがひとつの大きな目的でした。
MC5がホワイト・パンサーでなくなるまでには、いろいろな経緯がありましたが、まず、レコードに検閲がかかりました。それは、キック・アウト・ザ・ジャムのレコードの中のアジテーションだけではなく、僕の書いたライナー・ノーツも削除されてしまいました。
それとは別に、当初は志を一緒にしていた連中も、MC5のことを激しく攻撃し始めたのです。MC5は本当に自分たちのメッセージを信じていたし、運動のために本当に個人的な犠牲を払ってまでも結束というのを優先して活動をしていたにもかかわらず、同胞からそのような批判、攻撃にさらされて、結局、69年6月に、MC5はホワイト・パンサーから分離しました。
その後、僕が逮捕されて投獄されたときは、MC5が表で僕を支援する活動をしてくれるだろうと期待していましたが、残念ながら、その期待は裏切られてしまいました。でも、運動そのものはMC5抜きに連綿と続いていて、それが2年半後、ジョンやヨーコ、スティービー・ワンダーなどが参加したあのイベント(ジョン・シンクレア救済コンサート)に結実したわけです。
その後、69年の8月には、ウッドストックのコンサートがありますが、ウッドストックによって、アメリカの一般の人たちは、このヒッピーの運動というのは単に一部のマイナーの動きではない、これは止められない動きなのだ、というのをはっきり認識しました。
ただウッドストックも、良い面と悪い面があって、大衆にアピールすることによってより多くの若い人たちを引き入れることができたと同時に、権力側の監視というのもより強くなった。音楽も含めて僕らのやってきたことを止めようとする支配の力がどんどん強くなり、それが71年、72年と続いていきました。
そうしているうちに音楽業界でも大資本が投入され、ミュージシャンが札束を見せられて買収されていったと言うか、寝返ったと言うか、どんどんポップミュージックに傾いていきました。現状起こっていることを人々に伝える手段だったバンドが、真実を語れなくなった。
だから、質問に戻ると、衰退の原因は、大資本が音楽業界を動かすようになったことがひとつの大きな理由だったと思うのですね。そこで僕らはラジオ局に注目して、アンダーグラウンド・FMラジオ曲を通じてラジオからメッセージを発信しましたが、ラジオも結局、大きなラジオ局、大資本、大会社に買収され、これまで僕らが持っていた鋭いメッセージが次々とそがれ、アイドル志向になっていった。そのような経緯があって、どんどん僕らの反抗の精神、反抗のスピリットというのが骨抜きにされていきました。それが68年から72年くらいまでのことです。
先ほどジョン・レノンの話が出ましたが、もともとジョン・レノンとは面識がなかったそうですね。
その後、ジョンとは会われたと思うのですが、ジョンに対しては、今どのように感じていますか。
- John Sinclair
なぜ、ジョンとヨーコが僕の支援に来るようになったのか。そのいきさつは、かのジェリー・ルービンが、ジョンとヨーコに僕のことを話したというのが、そもそものきっかけです。
ジョンとヨーコは71年にニューヨークに引っ越して来ますが、当時、ニューヨークに来たときは、ジョンとヨーコ、どちらかと言うと、ヨーコのほうが(社会的・政治的)意識は高く、彼女のほうが芸術活動を通して過激だったし、彼女のほうがかなり先鋭的な活動をしていました。そして、アメリカに引っ越して来たということで、今、アメリカではどのようなことが起こっているのか、非常にアメリカの現状に興味を持って、いろいろな話をジェリー・ルービンに聞いていました。その中で、彼が「実を言うと、12月10日に、ミシガンのアンアーバーにジョン・シンクレアの釈放を求めに行こうと思うのだけれども・・・」ということを話したところ、ジョン・レノンが共鳴してくれたという訳です。
そこがひとつの大きな転換点になりましたね。僕が国と戦っていた裁判も、一般の人の見方が本当に180度転換したわけですよ。ビートルズの1人が彼のことを支援するというのであれば、国が言っていることのほうが間違っているのではないかというように、普通の人々が考え始めてくれたのです。結局、金曜日の夜にジョンとヨーコがコンサートを開いてくれて、月曜の朝、本当に僕は釈放された訳です。
僕の人生の中でも、その月曜日は最高の日でした。
それから時は経ち、新しい世紀になって、今は2008年です。変革の時代にアメリカを体験し、生き抜いて来たあなたから見て、アメリカを含め、現在の世界に、68年にあったような何かを変えていくような力とか、スピリットみたいなものが生まれている、あるいは動き出している可能性を信じていますか。あるいはどのようなことがそれに当たるでしょうか。
これからの未来について、思っていることをお聞きしたいのですが。
- John Sinclair
将来のビジョンと言われても。僕は年寄りになったから、先がどれだけあるのかと言うと、それは疑問なのだけれども(笑)。
いずれにしろ、今の僕にとって、本当に毎日こうしていられることに感謝しています。世の中を見渡すと、確かに今のこの地球の状態は、かつてに比べてはるかに深刻な状態になっていると思います。右も左も、狂信的な宗教に牛耳られて、本当にかつては想像もできなかったのだけれども、自爆して自分たちのメッセージを訴える。そのような世の中になってきてしまいました。
ただ、僕個人のことを言わせてもらうと、本当に僕の人生というのは、ハッピーな人生を歩んで来ることができたというように思っていますね。アーティストとしても非常に満たされた人生を送っているし、60年代後期の運動が衰退してきた後でも、それは変わっていない。ただ、68年当時は、本当に僕らのやっていることが成功し、本当に僕らの敵を倒すことができた。68年当時は、69年には僕らの運動が成功し、本当にアメリカの動きを変えることができるだろうと信じていました。ただ、結果は、負けたとしか言いようがないし、僕らの思っていたような世界にはならなかった。その後、3年近く牢獄で過ごしつつ、それでも詩人として、反抗的な作家として、これからも活動を続けていくつもりです。
60年代の運動というのは、最初は本当に少人数の人間が一緒に活動することから始まった小さい運動でしたが、僕らに共通していたのは、現状が嫌で、嫌で、しょうがなかったのですね。そういったつまらない日常の一部になりたくなかった。要するに、消費社会には加担したくなかったし、テレビから流れてくる雑音というのが本当にうざったかったから、テレビは消しました。考えてみると、結局、僕らというのは、今、自分たちの前にある生活を生きることしかできないのですよ。
僕は随分前、自分の人生について、ひとつの誓いを立てました。僕は貧しいままでいいというように決めました。リッチにならなくてもいいから、少なくとも、自分の命、生命を保っていくくらいの必要最小限の物があればいいというように自分で決めたので、そのような意味では本当に満ち足りた人生を送ってきたし、あまり物を欲しがらないというのは意外と幸せになるコツなので、ぜひとも皆さんにもお勧めしたい生き方だと思います。
また、最近の歴史を見ていると、60年代に起こったこと、歴史というのをもみ消そうという力が働いているのをずっと感じていました。現代の若い人たちに何らかのヒントを与えるものが歴史から削除されることによって、現代の人たちも出口なしの状態に追い詰められてしまう。実際、60年代のことを本当に語る映画も、テレビ番組も、恐らく、漫画を除いてはほとんど皆無だと言っていいような気がします。
だから、そのような意味では、今日皆さんが集まってくれたことは、ひとつの明るい兆しでもあると思います。かつて何が起こったのかを、今の人たちに伝えるというのも僕の使命だと思っていますから。
今は新聞やテレビ、どのようなメディアを見ても、本当に裕福な人たち、成功を収めた人たち。スポーツでも、音楽でも、事業でも、何でも成功を収めた人たち、億万長者になった人たちのことしか書いていない。その人たちが発する言葉しか書かないですよね。だから、僕のような人間が公の場に出て行って話をするということに少しの価値はあるのかなというように思っているし、今日のように満員の部屋でお話させてくれるというのは、とても嬉しいことです。皆さん、じっくりと僕の話を聞いてくれて、本当に嬉しく思っています。ありがとう。(拍手)
どうもありがとうございました。
聞き手:鳥井賀句
※1 ホワイト・パンサー党
もともとジョン・シンクレアが中心となっていたありとあらゆるジャンルでクリエイティブな活動を行なう人間を包括した形のマルチメディア集団“トランス・ラブ・エナジー・アンリミテッド”が、1968年11月に改名してできた政治結社。2つの反政府グループ、ブラック・パンサー党とイッピーとの連帯を表明し、MC5は「ホワイト・パンサー党・ハウス・バンド」となった。
※2 ブラック・パンサー党
1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織。
※3 シカゴ・セブン
1968年8月、イリノイ州シカゴで行われた民主党全国大会において、ベトナム反戦デモを行い、暴動の共謀で逮捕・起訴されたアビー・ホフマン、デービッド・デリンジャー、レニー・デイビス、リー・ウィンナー、ジェリー・ルービン、トム・ヘイデン、ジョン・フロイネスの7名の被告のこと。もともと、ブラック・パンサー党党首のボビー・シールを加えた8名であったため、文中のジョン・シンクレアのように「シカゴ・エイト」という関係者もいる。


