SHINGO WAKAGI

T.H.C.では2007年9月1日から16日まで、写真家・若木信吾氏がこれまでに撮影してきたポートレートの写真展『PORTRAITS』が開催された。会期最終日である16日、それらを収録した写真集『TIME and PORTRAITS』(アートビートパブリッシャーズ刊)の編集者でもある後藤繁雄氏と若木氏によるトークショーが行われた。
若木信吾(以下・若木):後藤さん、今日は展示見るの、初めてなんでしたっけ。
後藤繁雄(以下・後藤):実はね。最終日に、ひどいよね(笑)。
若木:突然もう話に入っちゃいますけど、ぼくがアメリカに留学していたときに、卒業して東京に営業に来たことがあって、そのとき、初めて後藤さんに会ったんです。それから何かいろいろ、ちょっと声をかけていただいたり、仕事をもらったりして、もう13年ぐらいになります。そのころから撮っているポートレートを今回、突然、後藤さんから「まとめてみないか」という話をいただいて。ちょうど東京で仕事を始めて去年で10年なので、タイミングいいかなというのもあったりして、やることになりました。
後藤:今日は私が質問して、信吾が答えるというような形になるということで。こんなにいっぱい来ていらっしゃるとはもうびっくり仰天ですけど。今日は若木信吾の現在と未来みたいな話にしようかなと、ちょっと上で今、話していたんです。信吾は浜松の出身で、いわゆる東京の90年代とかのカルチャーを知らないでそのままアメリカに行ったんですよね。で、戻ってきて、彼がどういうふうに日本で営業したらいいのか考えているときに、僕がたまたますごくピンポイントなところで、『デザインの現場』か何かでアンケートに答えているのがあって、それを見て電話してくれた。そのとき僕が『花椿』を紹介したら、そのまま行って、すぐ仕事をもらってきたんだよね。びっくり仰天みたいな感じのスタートです。その頃、僕は高橋恭司という写真家とよく一緒にやっていたので、ニューヨークで撮影するときにアシスタントで手伝ってもらったり。そのあと、アイルランドに行って撮影したりとか、旅をしたりとかした。
若木:行きましたね。
後藤:信吾はやっぱり『Takuji』、おじいちゃんというのが非常に大きなポイントで。信吾は本人も格好いいし、格好いい写真を撮影しているけど、おじいちゃんの写真が一番格好いい、という渋いことになっているわけです。それだけでは勿体ないだろうということで「今まで撮ってるポートレート、ちょっと1回まとめない?」というふうに誘ったんです。本人は嫌なんですよ。「まあ、やってもいいけど」みたいな感じで、人にうるさく言われないとやらないタイプですよね。そこが、あんまりチャラチャラしていないですよね。
若木:まあ、でも、インタビューとかの仕事で撮った写真っていうのは、いろんな要素が入っているので、まとめるときになかなか難しいところがあるじゃないですか。そういうのもあって、誰か一緒にやってくれる人がいるんだったら何かやりたいなと思っていたので、本当にもうありがとうございます。
後藤:今回は『time and portraits』っていうタイトル、つまり「時間と肖像」みたいなことになっている。最初は『portraits』っていうタイトルにしようと思っていたんですけど、何か違うなと思ったりして。それで……じゃあ、もう1回聞こうかな。ポートレートっていうものをどういうふうに考えていますか(笑)。
若木:最初のころは人物と環境みたいなことをちょっと考えていたので、やっぱりインテリアとかそのときの状況、いろいろなものを全部含めてポートレートの一部っていうか、その人の考えが表れているところだと思っていたので、なるべくその人の生きている場所で撮影できればなと思っていたんですけれども、なかなか東京の仕事っていうのはそういう感じではなくて。もともと外国から来る人を撮る仕事が多かったので、やっぱりホテルの一室で、いろんな取材陣が入れ替わり立ち替わり入っていくようなところで撮ることもあって、そうなってくると、どうしてもみんな同じ写真になっていっちゃうので、場所と人みたいなことの考えは一切捨てようというふうなことに、ならざるを得なかったんです。今はやっぱり人に寄っていくっていうか、なるべく周りが人を筋にして寄っていく、っていうのがいいかなと思って。そういう見方に何となく慣れてきたっていうのがありますね。でも、やっぱり本当にやるんだったら、その人の家に行って撮ることができれば一番いいなと思うんですよね。
後藤:この写真集に挟まれている、パンフレットにも書いてあるんですけどね。信吾はアメリカにいたからよくわかっているけど、ついうっかり勘違いされるのは、コマーシャルのフォトグラファーが、スタジオでモデルとかを撮影していて人物がよく撮れているというけど、コマーシャルだからよく撮れるんじゃなくて、写真として人間をよく撮れる人が、使えるっていうことでコマーシャルのほうに行ったりするっていうのが、実際の歴史なんですね。最初からコマーシャルのポートレートしかできないっていうふうな人はいないですね。信吾はそのことをよく分かっているから、では東京のポートレートとは何か、ってことに今度なるんですね。東京はいま信吾が言ったみたいに、外国から来たアーティストがこちらに来ても、細かくスケジュールが切られていてこう、システマティックにすすんでいく。
若木:今、最短になっていて、撮影2分とかなんですよ。それで、あんまり言ってもしょうがないんだけど、横でストップウォッチを持った人がいて、「あと30秒で」とかって言って、その間に撮るんですね。
後藤:そうですね。
若木:取材は報道主体みたいな。1時間もらえばすごくいい。うれしい。
後藤:東京的なポートレート、あるいは、現代的なって言ったほうがいいかもしれないけど、それはどういうふうに思います?つまり、もうそうなると、普通だったら「撮れねえよ」っていう人もいるわけじゃないですか。
若木:そうですね。うん。何か本当にこれ、今回の写真を見てみると、本当に一瞬会って、撮って、終わりみたいな感じのことが多くて。1日かけてその人のうちにいて、いろいろとしゃべったりご飯を食べたりしながら、使う写真は2〜3枚、みたいなことができないので、もう一瞬にして人を見る力というか、この人の何かベストアングルとか、この人の感じ、自分が見ている中で一番いいんじゃないかっていう瞬間とかみたいなのを、一瞬にして居合切りみたいに見つけなきゃいけないというのが訓練されたっていうか。
後藤:それはどうですか。やっぱり居心地悪い感じですか。
若木:いい悪いは両方あって、すごく会いたかった人にはもっと時間をかけて知り合いになりたいなっていうこともあったりするんだけど、もともと全然知識がない人に会うときは、バックグラウンドを知らないまま、その人本人の、何となく笑い方とか話し方とか性格で、そういうところ、自分の印象を切り取ろうっていうことになる。半分ぐらいは、わりとそうです。撮ったあとに勉強したりとかして、ああ、こういう人だったんだなと。
後藤:自分でインタビューもして、ポートレートを撮りたいっていうことにはならないですか。
若木:あんまりないですね。
後藤:ああ、そう。
若木:文字にしなきゃいけないっていうのを考えたら、多分、うっとうしいですよね。例えば、映像とかを使って、全体的に構成して、声も入ったりとか、映像もあったりとかっていうふうにして構成していくのはすごく面白そうなんですけど、文章も書いて写真も撮るっていうと、同じものを二つやらなきゃいけないっていう感じじゃないですか。
後藤:でも、写真の専門なトークじゃないので敢えて挙げますが、土門拳っていう日本の写真家がいます。たいへんな巨匠で、その人の「風貌」っていう写真集があるんですよ。日本のポートレート写真集ではもう抜群なものなんですね。それはその場所へ行って撮るんですよ。で、文章が横に付いていて、それは土門拳が結構書いているんですね。なかなかいい文章です。そういう例は他にもいくつかある。何ていうか、ドキュメントなんですね。普通、ドキュメントといったら、ストーリーを作って、文章のほうがメインで写真がサブ的に入るみたいな感じなんだけど、逆に写真がメインで文章がサブのこれも、ドキュメントなんですよ。今、信吾は、例えばこの間の映画(若木信吾さんが監督をつとめた映画『星影のワルツ』)みたいなものとか、最近また次の映画をやっているっていうのを聞いているんですけど、それはある種、ドキュメンタリーじゃないですか。
若木:そうですね。
後藤:だから、そういう興味もそのうち出てくるような気がするんだけど、どうなんだろう。
若木:そうですね。そう言われてみると今、取材しているものがあって、人が言っていることを、文章に書くのと映像に残すのとは、同じような感じだと思っているんですよ。前も何かポートレートっていうか、写真の話になったときに、カメラによって全然写真が変わるとかいうことも話しましたが、それを考えると、例えばビデオカメラがない状況であれば、文章を足さなければいけないのかなという気はするんですけど。やっぱり文章とか文字って一番古いメディアだなと思うので。
前に『relax』っていう雑誌で連載をやっていたんですけど、それは写真を撮ったときの会話をそのまま一部掲載していました。そのころ、後藤さんがインタビューを『花椿』とかでよくやっていらっしゃった頃なので、インタビューっていうものはどういうものなんだろうなと思って考えている時期があって。それで、別に有名な人ではなくて、普通にパッと道で会った人にインタビューするみたいなことを、何となく作品化っていうか、できれば映像化みたいなことができればいいかなと。
後藤:面白いですね。
若木:あと、今、うちでやっている『youngtreepress』っていう雑誌があって、それは一般の方にいろいろ頼んで、自分の周りの出来事とか、自分に起こった出来事を写真と文章で表してもらうっていうのを集めた雑誌なんですけど、感情とか思いみたいなものをあんまり書かないで、起こったときの周りの状況、例えば空はどうだったとか、花はどうだったとかっていう描写みたいなものを、記憶を頼りに、少しずつ描写していってもらうというのをやってもらっているんです。少し写真に近いというか。
後藤:今の写真に近いっていう話。写真っていうのは、現実に起こっていることをフイルムに閉じ込めたりするわけですよね。だけど、そのときに、欲しい写真を探していって撮るのと、起こっていることを受け入れて写真としてつかまえるというのと、随分違うわけです。初めはイライラしていて、自分のスタイルであるとか、それで写真を探しているから、何万と撮ったりとか、いろいろなことをするわけでしょう?信吾とかは今はもう本当に、ライカでちゃっちゃっと2枚ぐらい撮って終わっているよね。その違いっていうものについて、どう思います?
若木:もともとあんまりものを想像して、頭の中から出すという気がないので。というか、特に何も考えてなかったりとかするので(笑)。今、すごく二分化されていると思うんですけど、仕事を一緒にしているアートディレクターの人たちと話をしていると、こういうことを映像化したいと言ってセットを作っていったり、メークをしたりとかっていうタイプの人がいる一方で、僕のほうはそういうものが全くないので、逆に目の前にあればそれを残していくっていうか、そこの中でいい部分を切り取っていくとか、何か発見して撮っていくっていうのが得意とするところですね。
後藤:面白いことに、昨日、たまたま新宿で坂本龍一さんと高谷史郎さんの展覧会が始まったばかりなんですが、その坂本さんの楽屋に行って、信吾の写真集の話になって、「若木君の写真っていうのは、うまいのかうまくないのか、おれは分かんないんだよね」っていうふうに言っていたよ。そこが本当にそうなんだよね。みんなも「どうなわけ?」っていう感じで(笑)。例えば取材で撮っている写真家はたくさんいるわけですよ。そういう人らも頑張ってやれば写真集みたいなのを作るかもしれないんだけど、売り写真だし、それで撮影でパッと撮っちゃって終わりみたいなので、「あれは私の作品ではありません」みたいな感じっていうのかな。つまり自分の作品は別のところにあって、そういう写真はただの仕事で終わりみたいな感じで、結局、消費されてごみになって消えていくものっていうのが山ほどあるわけじゃない?この差は何かなってよく思うのね。この写真集を坂本さんに「どう?」って見せたら「格好いいじゃないですか、これ」とかって言うわけ。
若木:そうですか。
後藤:面白いなと僕は思っているわけね。ある意味では、スタイルがあるわけではないし、例えば自然光で同じように撮るとかっていうことでもないわけだし、テーマがあるのかないのか、親しいとか親しくないのかも分かりにくくて、「何?」っていうふうな感じの受け入れの度合いっていうのが、みんなそれぞれあって、面白いなって思っているんですよ。これがある意味、東京的な写真ってことなんじゃないかとも思うんですけど、今の話とかどう思います?
若木:1枚の写真を作るっていうことに関して集中している人たちっていうのはすごく多くて、それはちょっと工芸的だったり、アートであったりするんですけども、でも写真っていうのは、メディア上、いろいろなものに使えることがあって、新聞に載ったりもするし、折ってポケットに入れたり、証明写真になったりする。そういうメディアとしての使い方っていうか、写真をどういうふうに考えるかっていうことのほうに、ぼくは興味があるというか。ということであれば、何かこれは自分が撮った写真ではあるけども、違うことが作用して起こっていることがすごく多いので、その中で例えば自分がある一定の点として、そこにいろいろな通り過ぎていったりするものが残っているものがあっても、それは何かのきっかけがないとまとまらない、っていうのがあるんですよね。
後藤:ある種のある事情による写真の塊、というような、社会的な意識みたいなものでとらえているんだろうね。ぼくは編集者ですからよくわかるんですけど、そういう共犯関係があるので、写真集として形になった。
若木:そうですね。だから、「youngtreepress」なんかは特にそうなんだけど、やっぱり「作品化」しているものはすごく使いづらいっていうか。内面を見せてくるものみたいなものに対しての対処がやっぱりなかなかできないので、そうなってくるとこちら側として、社会的にとらえるやり方みたいなことっていうのは一番いいのかなっていうのはあるんですけど。なかなか難しいんですけど(笑)。
後藤:っていうかね、難しいっていうのは、じゃあこのやり方が全部オーケーかっていうとそうではないってことなんだよね。例えばアニー・リボヴィッツという人がいますね。僕もすごく好きなんだけど、でもこの人の評価ってまだ今のところ「どうよ?」っていう感じで、みんな思っていると思うんです。だけど、例えば彼女が契約している雑誌のページをめくっていると、リボヴィッツの写真が来たっていうのがパッと見て分かるんですよ。いつもそういう設定をして、自分の側に引き入れていって必ず撮るというスタイルを取っていて、でもあれはリボヴィッツがだからできるっていう。つまり誌上写真館もやっているわけですね。自分のページは自分の写真館なんですよ。大統領であろうと、彼女は自分の撮影したいシチュエーションで撮っているわけですよね。そういうことはもうレアだっていうことだよね。
若木:そうですね。
後藤:無理なんだよね。
若木:アメリカでもそういうカメラマンっていうのはすごく一握りで、その人たちはそういうことができる。10人もいないと思うんですけど。もちろん東京ではそれはできないんですが、でも東京でも、会える人物という意味では同じぐらい会えるっていうのが、実は一番すごいところなんですけど。
後藤:そうなんだよね(笑)。
若木:来日する数っていうのはすごく多くて。アメリカだとやっぱり、もちろん雑誌の数も多いし、カメラマンの数ももう星の数ほどいるんですけど、そんなたくさんの人にいちいち取材を取らせてくれないので、やっぱりアメリカで1枚しか写真を撮らせないとか、このカメラマンにしか撮らせないという人がいるんだけど、その人たちも日本ではオッケーっていうことがすごく多いです。ハリウッドスターであったり、アーティスト、評論家の人、作家の人もそうなんですけど。だから、そういう人に会えるチャンスっていうのは日本にはすごくあって、それを使わないとやっぱり。
後藤:それは僕なんかも、利用してやっていますね。『Esquire』で来日したアーティストをインタビューしする連載をやっていますけど、取材には絶対にオーケーが出るわけです。プロモーションだから断らないですからね。だから、プロモーションとはいえ、深い話は聞いてもいいわけだから、正直言ってやりたい放題ですよね。そういう意味では、東京はラッキーだな。でも、東京そのものが編集されているから、ある意味、それに乗った結果、という感じでもあるね。
若木:そうですね。割とそういう感じですね。
後藤:僕が知る限り、コマーシャルでやっている人と雑誌でやっている人っていうのは、日本の場合っていうのはセパレートされていて、そこを両方行き来できる人っていうか、言い方は雑だけれど、そこが分かっている人が今時あまりいないっていうか。頑張らないね、みんな。
若木:そうですね。周りの状況も強いですからね。
後藤:でもね、僕はインタビューをするから似ているところもあるんだけど、例えば時間がないとかあるとかっていうことで、内容が変わるってことはないよね。そんな感じがします。そのときに撮れるようなものが最高だっていうことじゃないよね。
若木:うーん、まあ、それもきっかけというか、しょうがないというか。
後藤:しょうがないよね。だから、こうやって写真として仕上がって、フレームに入ってみると、そんな時間がない中で撮ったようには見えない。
若木:それは写真のすごいところですね。映画を撮っていて、それもすごいと思ったんですけど、もう例えば10秒とか15秒のシーンでも、ものすごく時間をかけるんですよ。10秒は長くて、10秒間フレームの中に人がいて、その表情を保っていてくれるかっていうと、それはほとんどないんですよね。結局、一瞬だけやっぱりいいものがあるから、写真でその瞬間にちょろっと横の人が来て、パチッと撮っちゃったものがあったとしても、多分、そっちのほうがその瞬間をとらえられていれば、その普遍性みたいなものは出ちゃうっていうのが。
後藤:ああ。それはすごくよく分かるよ。前に、高橋恭司と一緒に、鈴木清順の映画のスチールをやったことがあって、そうしたら、恭司が面白いことを言って、「映画っていうのは二つの目っていうのは要らないんだ」って言うんですよ。スチールっていうのは、そこで写真を撮るっていうのはよほど、自分のほうが主だっていうふうに妨害しない限りは撮れない。
若木:そうです。本当につらいんですよ。
後藤:(笑)。スチールの写真集っていうのはおかしいよね。
若木:そうですね。やっているんですけどね。だから、なるべく撮影していない場所に行ったものを撮って。当然、カメラが回っているときは撮れないですけど、テストで回していたり、カメラを回さないでやるときがあって、そのときは「存分に撮ってください」みたいな時間なんですけど、カメラはそこにいるし、なかなかいい写真は撮れないんですよね。
後藤:ぼくたちがいま言っている話は、ある種矛盾しているような気がするのね。決定性はないって言っているのに決定性はあるみたいなことを言っているわけだから。あるときのあるポジションじゃないと、いいものは撮れないみたいに聞こえるじゃない?だけど、そういうものはたくさんある、みたいな話もしているわけでね。
若木:なんというか、見方を変えるしかないですよね。映画を作るためのベストポジションではあるけれども、写真は写真で違うポジションをとるというか。例えば僕なんかは時代劇の写真集っていうのを出しているんですけど。
後藤:知っているよ。
若木:ああ、ありがとうございます(笑)。その写真集は「村」側を撮っているっていう感じなんですけど、例えばそういう形っていうか。時代劇をこの時代に持っていくのではなく、今の時代に時代劇をやっているということを見せようっていう趣旨で、視点はだいぶ変わった。現場にいても、全然写真は撮れたんですけど。

後藤:ところで、今回は写真集にしちゃって、それでこうして写真展もやっているじゃない?ここで人に究極を見せるみたいな生々しさがあるわけなんだけど、撮ってから5年とか10年とか経っていて、その間に何か写真っていうのは成長するんだよね。撮影したときはたまたまっていうことで、いろいろな事情で撮っている感じしかしなくても、こうしてまた何かし直すと、何でもないものがガーッと前に出てきたりするよね。
若木:そうですね。
後藤:それって何でだと思う?
若木:やっぱり生きている、そのときの人の印象って、影響力があってすごく強いんですよね。例えば小説なんかも、あんまり僕は現代作家の人は読まないんですけど、でも亡くなると急に読みたくなったりするやつがあったりして(笑)。失礼な話かもしれないですけど、その人が生きているときには、その小説以外の活動っていうのが多いじゃないですか。僕らもこうやってトークショーをやったりとかしているわけですが、そういうところに見に行けば会えたりとか、何か余計な影響力があると、作品そのものみたいなものとか、撮った本当の純粋な部分っていうのが結構見えにくかったりするんですよね。
後藤:何かそれは、最初に撮影しておいて、その人が死んだりしちゃうと、見え方もだんだん変わっていったりするだろうってこと?
若木:それもあると思いますね。そういえば、ボードリヤールもちょうど亡くなられた。写真集を出す直前ですよね。3月ぐらいに亡くなっちゃったんですけど、あの写真なんかは本当にストレートに撮っているだけだったんですよ。撮った時間も少ないし、短い時間で、本当に2〜3枚しか撮っていないので。
後藤:あれは何か、モルタルの壁の前で。
若木:そうです。何かフランス語学院か何かの屋上で撮ったんですけど、ストロボをたいているのと、たいていないのと、全身と寄りと、とか1枚ずつパッパッとしか撮っていなかったんですよね。今回あの写真を、顔がはっきり見えるっていうことを基準に選んだんですけど、それが一番実はいいっていうか、光がきれいだとかそういうことではないっていうか。その人が亡くなっちゃったときに、あの人はどんな人だったんだろうとかって思い出さなきゃいけないときに、すごくそれが重要になってくるっていうか。
後藤:そうなんだよね。これは有名な話なんだけど、例えば五木寛之っていう作家がいましたよね。あの人は、自分の写真っていうのが決まっていて、編集者の間では片側からのやつしか使っちゃいけないっていう決まりがあるんですよ。でも、その写真は果たして残るかどうかっていつも僕は思うのね。そうじゃなくて、もっと何かバッとむき出しの、鼻毛とか出ているようなとんでもない写真があるとするじゃない?でも、そういうもののほうが最終的に残ったりする。写真としては、そっちのほうがすごかったりするような気が何となくするんだよね。何かそのときは下手くそな、「しまった」みたいな写真なんだけど、結局、あとで時間がたつと、そっちのほうが全然リアルだったりというか、貴重な写真になったりするような気がするんだよね。そう思わない?
若木:思います。話はちょっとすり替わるかどうか分からないですけど、それを考えると、デジタルだとそんな鼻毛とか出ていたりすると、消しちゃうじゃないですか。そうすると残らないっていう。5年後ぐらいに「ああ、あの写真、どうしたっけな」ってときに、もう世の中にないんです。そうすると、やっぱりフイルムとかで取っておいて、5年後ぐらいに鼻毛が出ているやつを探すっていうのもいいことですけどね。
後藤:デジタルはやらないの?
若木:今はあんまりやっていないですね。
後藤:今はやっていないっていうのは、前はちょっとやろうとしたわけ?
若木:何かで試したりもしたけど(笑)。
後藤:じゃあ、しようとしているじゃん。
若木:うん。でも、それはフイルムがなくなったときのためにっていう。
後藤:ああ、なるほど。
若木:撮ったものをプリントしちゃえばいいんですけど、大概しないじゃないですか、いいものしか残したくないから。そのいいものってどれなのか、っていう決定する期間が短いっていうか、5年もデータとして取っておくわけにはいかないと思うんですよね。コンピューターを買い替えたりとか、カメラを買い替えたりするから。
後藤:だから、逆に言うと、出力っていうか、プリントしたほうが残りやすいよね。
若木:そうです。絶対プリントはしたほうがいいと思います。それでおれがやっているかっていうとやっていないんだけど(笑)。
後藤:そうなんだよな。でも、おれ、最近またちょっと、編集心がピクピクいつもしているから、やっぱり日本の若い人のポートレートっていうのは、本気でやっている人はいないなってことにすごく気が付くんだけどね。いないな。
若木:若い人って、モチーフがですか。
後藤:モチーフが。アーヴィング・ベンだったら撮るような気がする。今の日本人の若い人の格好とか面白いから。本気で撮ったら、名作になると思うよね。やろうとしているんだけどね。何かそういう、体っていうものに対する興味とかっていうのはないの?
若木:いや、台湾の占い師に「ヌードを撮ったほうがいい」って言われたんですよ(笑)。
後藤:いい話じゃないですか。占い師のところに行ったの?
若木:行ったんですよ。取材がてらなんですけど。そうしたら「裸が見えます」。「いつまでもそういう本、出版とかやってちゃ駄目です」とか言って。お金がなくなるから(笑)。
後藤:「『youngtreepress』とかやっているんですけど」って言ったら。
若木:そうしたら、「もうかるには身体的なものを撮らないと駄目だ」って言いましたね。機会がないので、そういうのはないんですけどね。
後藤:ヌードはいいよね。やらないかな?
若木:いや、分からないです。機会があればやりますけど。自分が何かこういうふうにしたいなとか、特にイメージがないんです。
後藤:そう、写真家っていうのはこんな、当てのないもんなんですよ。
若木:いや、でもね、やっぱり例えば(リチャード・)アヴェドンだったり(ヘルムート・)ニュートンだったり、写真家としてスタッフが動かせるぐらいの大きい規模っていうか、事務所規模で写真を制作しようっていう意図がないと、自分で電話をかけたりとかほとんどないですから。結局。
後藤:そう考えると、編集者ってありがたいですね。
若木:ありがたいですね。そういう意味では、東京の編集者っていうのは非常にありがたいです。グループで動かなくていいですからね。ニュートンなんか、事務所の人が一生懸命、100人も200人もおっぱいの大きい人を連れてきて、ニュートンは座っているだけですからね。そういうことはグループとして活動できるようにするには、もちろんお金も要るし、いろいろやることがいっぱいあるじゃないですか。お金があったらやるかっていうと、ちょっと分からないですけど。
後藤:たとえば(ヴォルフガング・)ティルマンスとか、やっぱり全然考えていることもタイプも違いますよね。っていうか、「どう思うの?ティルマンス」って聞いたことがないんだけど。ないよね?
若木:ないですね。
後藤:そんなの恥ずかしくてしゃべれないっていう話で。「どう思う?ティルマンス」とか、格好悪いからやらないじゃん。
若木:好きですけど。
後藤:おれももちろん好きなんだよ。だけど、問題意識っていうか、別にそんなことを意識しているわけでも何でもないんだけど、ある種の同時代性はあるよね。
若木:そうですね。
後藤:あるような気がするな。
若木:ティルマンスはニューヨークでプリントしたときに暗室が一緒だったので、何か話したりとかしたこともありました。普通にすごくいい人だし、写真を見て「いい写真だね」ってコメントするぐらいのちょっとした会話ですけど。でも、そういうところの人柄ってすごくあると思うんです。そういう人がああいう写真を撮っているっていう。
後藤:忘れちゃうから撮っておくっていうのもある種の愛情なんだけど、ティルマンスはやっぱり愛情があるわけだね。ちゃんと丁寧に撮っていこうと思っている人なんだよね。それは優しいよね。すごくそう思う。信吾に愛情がないかっていうとそんなことはないけど、結構そっけないよね。
若木:まあ、あんまりないですけどね。
後藤:ないな。
若木:いや、やっぱり状況ですよ。愛情を持てる状況にあるかないか(笑)。やっぱりティルマンスのポートレートも、そんなにおれらみたいに取材の写真じゃないじゃないですか。
後藤:ああ、なのかな。ホテルのほうで1回か2回ぐらいしか見たことがないけど、何かあの大きな体を動かして、一応、的確なところは探して撮っている。
若木:いや、おれも探していますよ。
後藤:ああ、そうか(笑)。でも、写真なんかを撮っていると、おれがインタビューとかをしているのを眺めたりしていて。
若木:インタビューの前に撮るか、インタビューのあとに撮るかっていうのもあって。
後藤:前はあんまり撮らないでしょう?
若木:いや、前も結構あるんですよ。
後藤:そうですか。それはどう?どっちがいい?
若木:うーん、どっちもありなんですけどね。でも、やっぱりインタビューを一緒に聞いていれば、写真を撮らない代わりに本人を必ずじっと見ていますからね。印象が変わったりもするし、でも、そこでだからといっていい写真になるかっていうと、そうでもないですよね。そこが面白いところで(笑)。
後藤:そうですね。そういう感じ、あんまりしないもんね。「これは先にしたほうがいいよ」とか「あとのほうがいいよ」とか。僕はどっちかというと、あとのほうがきっといいだろうなと思うのね。というのは、取材じゃない?ということは、おれらもサービス精神なんかでリラックスさせたり、フランクな状態をつくろうとするわけだから、それはあとのほうがやりやすいだろうなとか思っていたけどね。
若木:うん、本人は割と和やかになっている場合が多いですけどね。でも、例えば雑誌のポートレートとして、取材をされたの中での本人っていうものをポートレートするのであれば、やっぱりその取材あとのほうがいいのかもしれないですけど、それがその人本人の人生の中での1枚になるかどうかっていうと、またちょっとそこは違うっていうか。
後藤:それは違うね。今日はこういうような場所だから余計に喋るけど、鈴木親っているじゃない?彼のポートレートは独特で、うまいと僕は思うのね。彼は「親しくなってしまうとちゃんと写らない」と言って、だから、取材のときなんかに前とかあととかではなくて「親しくなる手前ぐらいで撮る」って言うんですよ。僕も一緒にやっているんですけどね。絶妙だなと思うんです。親しくならないんだよね。それが面白い。
若木:スタイリッシュにするためには、ある程度クールな部分っていうのが必要で、やっぱり知り合いになったり好きになったりすると、あばたもえくぼなので、何でもよくなっちゃうんですよ。そうすると、撮っている本人としてはすごくいいと思っていても、「それはおれにしか見せていない瞬間なんだ」っていうことに重要性が行っちゃうと、何か違う。
後藤:やっぱり緊張感っていうものは非常にありがたいというか必要で、僕らもインタビューとかをするけど、すごくスタイルのいい人だったり、すごく好きだったりするときは、「ああ、今日は絶対に失敗する」と思うもん(笑)。「ろくなの取れねえな、今日は」って。それが「どうなるか分からない」とかっていうときのほうが、絶対にいいよね。「やったー」みたいな感じになるもんね。――今で何分ぐらい経過していますか。
THCスタッフ:時間ちょうどです。
若木:すごいですね、体内時計が(笑)。トーク慣れしている(笑)。
後藤:なるほど。じゃあ、大体こんな感じです。今日、僕は最終日で来たんですけど、やっぱりいいもんだなという感じがすごくします。それはやっぱり、写真は簡単だけど簡単じゃないっていう感じがするからですね。撮るのは簡単だけれども、形として歴史化していくということも写真の一部だから、非常に重要な機能なので、それが果たせているなという感じがしみじみしました。本当は、これは世界であまりないものだと思うんですよ。やろうと思ってもできないから。いまは気軽に見ているけど、あとで「あの写真展はよかったな」と思っていただいたら(笑)。
若木:ありがとうございました。
若木信吾 写真展 『PORTRAITS』 Exhibition Page ->
編集:内沼晋太郎


