JUGATSU TOI

『チェ・ゲバラの遥かな旅』(集英社文庫)や『カストロ、銅像なき権力者』(新潮社)などで知られる作家・戸井十月氏は、世界中をバイクで走破し、それらの旅に関する著作を数多く発表している。その戸井氏が1997年からスタートした「五大陸走破行」の四大陸目、南米大陸の旅をテーマにした展覧会「遥かなるゲバラの大地」が、2007年4月の10日から22日まで、T.H.Cにて開催された。その会期中である4月14日に、「TOKYO HIPSTERS SCHOOL 戸井十月の裏原塾 Vol.2」という題で、この旅に関するトークショーが行われた。
戸井:戸井です。知った顔がたくさんあるので、一番やりやすい感じです。
自分でもよく分からないんですけれども、この展示会はさっきご紹介していただいた藤本さんという方から「南米一周展というのをやろう」と言っていただきスタートしたのですが、そもそも「南米一周展」というのはどういう展覧会なのか。僕はカメラマンではありませんから写真だけを飾ってもしょうがない。だからなるべくその南米大陸を旅したときのその空間に入って、雰囲気を感じてもらえるようにというようなことで、オートバイなんかも入れたりしました。オートバイを入れるのも大変なんですけれども。
今日はこういうトークショーの形ですから、いろいろとものも片付いてしまっていますけれども、普段はもう少しこういろいろと見られるような状態になっています。南米大陸という世界の空気というか雰囲気を味わってもらえればいいなと思っています。
今日はお話をするんですけれども、僕のこの南米1周の旅は、早いものでもう2年前になってしまうのですか。2005年の5月から9月にかけて4か月、およそ3万キロぐらいの行程をオートバイで、車で行きましたが、もうあっという間に2年たってしまいますね。その旅の記録は、一つは映像で、CSチャンネルの「旅チャンネル」というチャンネルがあるんですけれども、そこで、ペルーのリマを出発するところからまたリマに帰ってくるところまで、1時間の番組を6回にわたって放送しました。これを見ていただいている方は、もう大体、旅の概要はお分かりになると思います。あと、この旅のことを書いた本も、新潮社から出ています。『遙かなるゲバラの大地』という本です。もしその本も読んでくださっているとすればもうあまり話すこともないんですけれども、今日はせっかく来ていただいたので、今ちょうど飾られているこの写真の幾つかを説明する、補足するような形で、旅の、特に僕にとって印象に残っているエピソードなり風景なりを幾つかお話ししたいなと思います。ですから、さっき言ったみたいに「旅チャンネル」だとか僕の本を読んでくださっている人にはちょっとダブる話もあるかもしれません。
ペルーのリマという首都を出発したのが、2005年の5月の頭です。それから一路、南米大陸を進んでいきます。リマはここですが(といって地図を指す)、ここからずっと太平洋側を一路、南に下ります。前半は、どんどん南へ下っていきます。南に下るということは、イメージでいうと暖かくなってくるように思えますが、実際は南極極点に近くなってくるわけで、どんどん寒くなりまして、夕日と同時にどんどん寒くなって、予定どおり行かずということがもう最初から起こりました。もともと寒いところへ行くのは嫌いなので、そこから慌てて逃げるように行けるところまで行って、今度は大西洋側を北上して行きました。北上するということは、どんどん赤道に近くなってくるわけで、イメージとは違って、どんどん暖かく、暑くなってくるんですね。

ぽーんと話は飛ぶんですけれども、今ちょうど僕の後ろにある、洗濯物をいっぱい干してある写真と女の子が手のひらに猿を乗せているような写真、これは同じ場所です。ブラジルをずっと上に上がってきて、アマゾン川という世界で最大の流域面積を誇る川があります。ここの河口にベレンという町があります。ここまで、この旅でいうとちょうど2か月、半分でした。ベレンからこの大河アマゾンを対岸に渡ります。河口の幅が船で渡ると36時間かかるという川ですけれども、これを渡って、またさらにブラジルの一番端まで行きます。
皆さんもほとんど知らないでしょうし、僕たちも初めてだったんですけれども、ここに仏領ギアナという国とスリナムという国とガイアナという国、この三つの小さな国が身を寄せ合うようにして、南米大陸の一番北にあります。これらの国は日本ではほとんど紹介されていませんし、一体どんなところなのかというちゃんとした情報もない状態で、僕たちは行きました。このブラジルからフレンチギアナに入るところの川は、対岸がもう仏領ギアナです。
ブラジル側の国境の町、オイアポケといいます。こんなことでもなければ絶対に通らないような、赤土でぬかるんだ、寂れた、そして国境の町ですからどこかうさん臭くて怪しげな雰囲気があるジャングルの中の町です。そこに、結局、僕たちは6日間足止めを食らうことになりました。
ここら辺りに来るともうもちろん寒くないんですが、雨季が来ていて、どんどん雨が降って、そのせいで道もぬかるみ、予定どおりに進まない。そのフレンチギアナに入るまでの6日間というのは、最初の予定どおりに行けば1日か2日で川を渡ってフレンチギアナに入るはずでした。それが予定どおり行かずに、3日、4日、5日となるわけです。最初のうちは「予定どおり行かないことが非常に腹立たしい。嫌だ」と言って、ともかくこんな、何て言うんですかね、わびしい寂れた怪しげな地の果ての町から早く出たいという思いが強いんですけれども、そこに致し方なく1日、2日、3日といると、だんだんとその町がいとおしくなってくる。
例えばその宿のこの女の子もそうですけれども、この子はお母さんが住み込みで働いていて、そのお母さんと一緒に宿の隅のほうの部屋で暮らしていまして、お母さんの手伝いもするんです。この猿を飼っていて、毎日猿を見せに来るんです。かと思えば、長屋のようなモーテルなんですけれども、3日目か4日目に、今度はその町で演奏する楽団がちょっと大きな町からやってきているんです。ここに来るまでも、彼らも非常に苦労、困難をしまして、どろどろの道を何十時間もかけて、ツアーバスみたいなので来るんです。それが器用なもので、それで部屋に、夜、その町の広場、僕たちで言うところのライブハウスみたいなところで「ライブをやるから来てくれ」と。行くと、ほとんど人がいなくて、宣伝がちゃんとしていなかったんでしょうけれども、寂しい中で彼らも一生懸命やっています。そういうバンドの連中だとか、住み込みで働いている親子だとか、それからしょっちゅうその宿の前でおしゃべりをしている運ちゃんだとか、今まで全然もちろん知らなかった、名も知れない、名物も何もない町で、だんだんそういうちょっとした人と出会って、顔を覚えて、名前を覚え合って、当然、毎日そこにいますから、「おまえは何をやっているんだ。まだここから出発できないのか」みたいなことを向こうは向こうで声をかけてきます。食堂のおばさんと顔見知りになったり、飲み屋のお姉ちゃんと顔見知りになったりしていくうちに、だんだんこのオイアポケという、本当にこんなことでもなければ地図の中でも見過ごしてしまうでしょうし、通ることももちろん一生ないような、この小さなジャングルの中の町がだんだんいとおしくなってくるんです。
そして、ついにやっと7日目に渡れることになって、仏領ギアナというところに渡りました。泥色の川が流れていて、そこを船が斜めに、対岸のジャングルに向かって渡っていくんですけれども、そのオイアポケの町が隅にずっと流れていって遠ざかっていく。何ともいえない寂しさが込み上げてきました。
不思議とこの旅の中でも印象に残る出会いとか、もちろんハプニングとかいろいろな大きなことがありましたけれども、時がたつにつれ、本当に思い出されるというか、自分の記憶の中に、あるいは体の中に染み込んでいくのは、そんなつまらない、何てことのない町であったり、何てことのない人との出会いだったり、別れだったりします。ドラマチックなすごいことよりも、むしろそういう風景だとかそういう出会いのほうが思い出されています。これは今までの旅でもそうでした。どこか田舎の村に夕方着いて、みんなでシャワーでも浴びて、別に特に行くところも何もありません。「じゃあ、ビールでも買ってこよう」と雑貨屋でビールを買ってきて、安宿の前にベンチか何かを出して、ビールを飲みながら、目の前に広場があって、夕暮れ時、うろうろして、子どもたちがまだ遊んでいて、若いカップルがベンチで何か話をしていて、老人が猫や何かと一緒にうろうろ歩いている。何ともない、どこにでもある、名もない道端の村の夕暮れの風景なんですけれども、そのときの風景、あるいは遠くから流れてくるちょっとノイズのかかった調子外れの音楽であったり、車の排気ガスのにおいだったり、馬車が走っていると馬のにおいだったり、そういうにおいや音や風景がふっと思い出されまするんです。
1997年のちょうど10年前の話なんですけれども、五大陸を走破するなんていうことを思いついてオートバイで旅をし直そうと思いました。よく「何でそういう旅をするんですか」とかいろいろ聞かれますが、その都度、適当な理由があれば言うんですけれども、今回なんかの場合は、特に僕がずっと信仰しているチェ・ゲバラという人間が若いころ旅をしたルートを走るとか、いろいろとそういう理由は多少は付けられるんですけれども、でも本当のところは、恐らく今言ったような、旅の日々の中で、何気ない何てことない風景の中に身を置いたときの感じだとか、人との出会いとか別れとか、そういうものが恐らく僕は自分自身にとっても一番好きで、そういうものに憧れながら旅をしているんだろうなと思います。何か大げさな目的とか獲得する何かがあるというわけではなくて、そういう淡々とした日々を重ねていける贅沢というか、そしてそういう記憶が自分の中にたくさんたまっていく贅沢というか。
僕は物書きをしていますし、そういう場面を写真で撮ったり、ドキュメンタリーにしたりする仕事をたまたましていますけれども、その仕事のためにしているというよりは、せっかくそういう旅をし、そういう風景の中に身を置いた、そのときの感じを何とかいろいろな人たちに伝えたいというか、読んでもらったり見てもらったりしたい。世界は本当に広いですし、たくさんの価値観があったり、たくさんの人間が本当にこの瞬間をもがいてあがいて、そして喜びを感じて生きているという当たり前のことを、僕自身も感じて、それを何か伝えていきたいというような感じで、それで僕は恐らく旅を続けてきたんだと思います。そういうことであるならば、この先の旅も続いていくだろうと思います。
旅というのは、本当にすればするほど自分は何も知らなかったということだとか、いろいろな勘違いをしていたということだとかが分かるわけです。例えば未知の国あるいは未知の場所に憧れがあって旅をします。1回行ったら、それはそこで自分の好奇心なり思いは遂げられて、「じゃあ、次のところへ行くか」ともちろんそういう人もいるでしょうけれども、実は1回行くと、今も言いましたけれども、行けば行くほど自分がいかに世界も人間も知らなかったか、あるいは間違って覚えていたかということを知ってしまう。そうすると、もっと知りたくなるし、より正確なことも知りたくなるし、またそこに行って確かめたいことも増えてきます。ですから、旅というのは、すればするほどしなければならないことが増えてくるという。次の旅がまたつながっていくというか、そういうものだと思います。
皆さんの後ろ側にある写真なんですけれど、今回も一連のゲバラのゆかりの地に行ってまいりました。、ゲバラは、キューバ革命を起こしてボリビアに渡ったあと、およそ1年弱後に捕らえられて殺されて埋められます。1967年ですから、今からちょうど40年前です。僕は、2005年の旅のときにそのゆかりの地をルート上に選んで通りました。僕は、2005年の南米1周の前に、1992年にも南米1周をしています。1987年にも北南米縦断というので、ですから、南米大陸、大陸規模の旅というのは3回やっているのですが、1992年のときに、すでにバジェグランデというボリビアのチェ・ゲバラが仲間たちと共に埋められていたところを通っています。ところが、そのときはもちろんそこにゲバラたちが埋葬されていたということはまだ知られておらず、それから数年後に、今からちょうど10年前、1997年にやっとそこで埋められていたということが分かって、彼らの遺骨が発掘されます。僕が初めて92年に行ったときは、その近くで殺されたということは分かっていましたけれども、その後、死体はいずこかに消えたと。世界じゅうを探しているという状態でした。ですから、最初にその町を通ったときは、全くそのことは分からなかったのですが、その後1997年にそういうことが分かって、それで僕は、いつか必ずそこを訪ねたいと思っていました。
そして、この間のその一連の南米の旅で、バジェグランデにまず行きました。埋められているところは独特の雰囲気が漂っていました。そこに小さな宿があって、その前に通ったときにはなかった宿ですが、ファニータさんというおばさんがやっている宿で、この人は学校の先生だったんですね。それをリタイヤして、民宿みたいなものをやっていました。そのファニータさんの家でご飯を食べながら話していたんです。
そのとき、僕が親子どんぶりを作ったんですね。ボリビアというのは本当に食い物がまずいので、何回かに1回は自分たちで自炊をするんです。ファニータさんの宿はもちろんちゃんとキッチンも全部あって、そういうところに泊まったときは、大概、「自分たちで作るから、厨房を貸してくれ」と厨房を借りて、その代わり、そこの宿のおやじさんであったりおかみさんであったりにも食べさせてあげるということをよくやるんです。そうすると向こうも喜ぶし、こっちもいいんです。それで、ファニータさんの宿でも台所を借りて、その日はたまたま確か親子どんぶりを作ったんだと思うんです。話はそれますけれども、親子丼というのはどこでも大概作れます。玉子と鶏肉は大概あります。南米は米もあります。
ファニータさんも「おいしい。おいしい」と言って食べていて、「今日は、ゲバラの埋められていたところを見に行ってきた」という話をしたら、ファニータさんが「チェ・ゲバラに最後の食事を供して、最後のやり取りをした人がいるのよ」なんてことを言うわけです。僕はもちろん、今まで資料だとか何とかで、そういう当時小学校の教師をやっていた女性がいたらしいということは知っていましたし、僕がチェ・ゲバラについて書いた本の中でも自分の想像を交えて、その彼女がゲバラに最後の食事を与えて、言葉のやり取りをするところを書きました。だけれども、実際その人ともちろん会ったわけでもないし、取材をしたわけでもなく書いていたわけです。
実際そういう人がまだ元気でいると。年を聞いたら、1948年生まれですから全く僕と同い年で、なおかつ当時はイゲラ村というチェ・ゲバラが殺された村にいたんだけれども、今はバジェグランデにいるということを聞きまして、それで僕は会いに行きました。そこで少し話をして、ただそのときは南米1周の旅の途上ですから、詳しい話をじっくり聞くということもそんなにできず、「また来ます」ということを言って別れました。どうしてもそのウリア・コウテツさんという女性、写真にもありますけれども、今の話をもっとちゃんと聞いて、チェ・ゲバラという男が最期の瞬間、何を言ったのか。それを彼女はどんなふうに聞いて、そしてそのたった1日ほどの出会いなんですけれども、その後の彼女の人生にどんな影響を与えたのか。いろいろなことをちゃんともう一度聞かなくちゃいけないなと思いながら、僕はそのあと旅を続けました。
ボリビア、バジェグランデのあと、アンデスのほうへ登っていきました。コチャバンバというボリビアで言うと第3番目ぐらいの町ですかね。その近くで飯を食っていたら、薄井といういつも一緒に行くカメラマンが何か祭りの格好をしている人を発見して、「戸井さん、近くで祭りがあるかもしれないからちょっと聞いてみよう」と言います。ここら辺は僕たちの、いつも一緒の仲間ならではのある種の勘ですけれども、聞いたらやはりすぐ近くで祭りがあると。お祭りはもともと大好きですから、じゃあ、予定を延ばして1日ここで泊まっていこうということで宿を探して、荷物を置いて出かけました。
これは思った以上にすごいお祭りで、いろいろなタイプのダンスが路上で踊られながら、夜中までパレードが続きます。その中に、最後のほうに幾つかのグループがあったんですけれども、異様な仮面を持った連中がいて、先頭をまた異様な天使みたいなのが剣を持って、悪魔みたいなやつらを率いて踊るという一団がありました。これは非常に迫力があって面白かったです。その辺の写真の向こうの右から3枚目、これは天使なんですけれども、ミカエルという天使がディアブロ――スペイン語でディアブロというのは悪魔です――その悪魔たちを率いて踊り狂うという。
そのときはただ、非常に何か色彩もすごいし、マスクだとか衣装のデザインもすごくて面白いなと思ったんですけれども、いろいろ話を聞いたりあとで調べると、なかなか面白い歴史的な背景がありました。スペインがボリビアを占領し、植民地にして、いわば先住民のインディオたちを奴隷のように使って、当時は銀ですけれども、鉱物資源がすごく豊富ですから、地獄のような条件の中で働かされるわけです。先住民の坑夫たちがもともとあがめていた神がもちろんいたんですけれども、そこにスペイン人が当然カトリックで入り込んできて、もともと彼らが信仰していた神を地面の底に封印してしまうんですね。ところが、坑夫たちは自分たちの守り神として、ティオというんですけれども、どう見てもスペイン人から見ると異形の神で、悪魔にしか見えない格好をしているんですが、それを坑夫たちはずっと大地の神としてまつって、共に生きてきたわけです。
恐らくスペイン人としては1年に1回ぐらい、ガス抜きのためにということもあったんでしょうけれども、そのスペイン人から見ると悪魔にしか見えない、ディアブロにしか見えない連中が、1年に1回だけ地上に出てきて踊り狂うというのが、オルーロという鉱山の町のカーニバルなんですね。それは、世界遺産にももちろんなっています。そのオルーロという町のカーニバルが本物であってすごいんだと。ディアブラーダというディアブロの踊りはすごいんだというのを、ほんの道端でちょっと祭りの格好をしている人を見つけたことがきっかけで、その田舎町の外れで祭りを見に行って、それでここにあるようなこういう仮面をかぶって踊り狂う小さな祭りを見つけて。そこで「ああ、知らない言葉だ。ディアブラーダっていうのは何なんだろう」というようなことで、次にちょうどそのコチャバンバの先がオルーロという町でしたから、そこに行ってその由来を聞くと、今言ったようなことをみんな言うわけです。もちろん僕がよく知らなかっただけで世界的な祭りです。
絵に描いたようなマリア様の教会が町の真ん中にどーんとあるんですけれども、その地下に講堂があって、そこにさっき言ったティオというのがちゃんとまつられているんですね。絵に描いたような、本当にもともとあった土着の神を、あとから来たヨーロッパの白人の神が抑え付け、封印して、そして何とか統治してきたという非常に分かりやすい風景でした。ああ、こんなことがあるんだと。それで、それがそんな逆の意味で先住民の人たちの表現のあれとして、そういうダイナミックなカーニバルになっているんだと。カーニバルというのは、謝肉祭ですから基本的にもちろんキリスト教徒のお祭りですけれども、そのキリスト教徒のお祭りで悪魔が主人公になるというのは、このオルーロのカーニバルだけなんですね。これは面白いなと思って、そのあと旅を続けました。でも、もうボリビアというのは旅の最後ですから、そのあとはアンデスを越えてチリに下って、そして最後また出発したペルーのリマに戻るというふうにして旅は終わりました。それが2005年の9月です。
僕はすぐにオルーロのカーニバルというのをどうしても見たいし、ただ見に行くというわけにもいかないので、何とかこれを仕事にもしたいしできたらいいなと思いました。自分が行きたいというのがもう何よりのエネルギーなんですけれども、もちろんいろいろと調べたりしまして、カーニバルというのは2月ですから、僕が帰ってきたのは2005年の9月で、もうそんなに日にちはない。それで、1〜2か月で企画書みたいなものを書いて、NHKの人は今日来ていますよね、NHKをだまして(笑)、その翌年の2月のカーニバルに間に合いました。
オルーロというところは標高4000メートルほどあります。富士山の頂上よりもさらに300〜400メートル高いです。そこで彼らは、しかもまたそこから100メートル、200メートルの縦穴にもぐっていって、削岩機で岩を削る。冬になるともちろん零下です。そうするとじん肺も寒さの中でやられてしまう。彼らは少し前まで坑夫の平均寿命は33〜34歳だったんですね。今、多少はよくなっているみたいですけども、それでも病気と事故でどんどん死んでいくような過酷な中で、しかし彼らはそのディアブラーダという土着の神の信仰を捨てずに、カーニバルのおよそ3日間踊り狂うんです。僕もその前に旅をしていますから、4000メートルのところで足がつってしまったり、いろいろなことになるんです。なのでその旅のときは、とにかく早くチリに下りていこうと。早く標高の低い、空気の濃い暖かいところに下りていきたいと、そのときはオルーロみたいな町は早く通り過ぎたいという一心でしたけれども、ふと気が付くとまた戻ってきていたという。
結局そのときは、カーニバルの撮影しなくてはいけませんし、その主人公になる家族たちの日常から撮影をして、カーニバル、そして終わるまでというので、都合2週間以上そこに滞在しました。彼らが走ればこっちも走り出すので、心肺はかなりきつかったです。でも、その4000メートルの中で2週間強滞在して、戻ってきて、結果、NHKの番組になりました。
考えてみれば、本当はただお昼ご飯を食べて通り過ぎるだけのところだったあの町で「ちょっとお祭りを見ていこうか」という好奇心と、ちょっと働いたある勘とで、安宿で一泊した。それが結果的には、今言ったオルーロのカーニバルをちゃんと撮影するということにつながっていくんですね。
それから、そのオルーロのカーニバルの撮影が終わって、やっとその4000メートルのところから低いところへ下りていけるということで、オルーロから車でちょっと行ったところにコチャバンバという少し大きな町がありまして、そこには飛行場があります。そこからサンタクルスというさらに大きな国際線が飛んでいる飛行場まで行って、そこからブラジルに行って、ニューヨークかどこかへ行ってまた帰ってくると36時間ぐらいかかるんです。
そのコチャバンバの飛行機に乗るときに、よくあることなんですが、前は飛行機が遅れて、結構待たされました。しょうがないから空港内をぶらぶらするんですけれども、もちろんせこい飛行場で、そんなに免税店があるわけでもないし、ちょっとお土産と新聞とキャンディーと薬を売っているようなドラッグストアが2〜3軒あるぐらいです。しょうがないのでぶらぶらして、何度も行ってもう見るものもありません。
ふと気が付いたら本が1冊ありました。その表紙が何かちょっとえぐいんですけれども、ゲバラの顔みたいなのが表紙になっていました。何気なく見て、ひまですから開いていたら、中に僕が今まで見たことがない写真がいっぱいありました。要は、それはボリビアで出版されたものですから、ゲバラがボリビアに来て、捕まって、さっき言いましたバジェグランデで埋められるまでの殺されたあとの遺体の写真だとか、いろいろなものが写っているんですね。こんな写真は、僕は今までもちろん見たことがなくて、これも直感ですけれどもこの本を買おうと思いました。
ちょっと大きめのお金しかなかったので、それをおじさんに出したら、要は今おつりがないんですけれども、おつりを取りに行くとか何とか言って、どこかへ行ったきりまた帰って来なかったりして。帰ってきたけれども「おつりがない」とか。そんなことを言っているうちに、それまで散々、2時間ぐらい飛行場で飛行機を待たされていたのに、突然、飛行機がくる(笑)。それで、僕はもういいやと思って、このおやじじゃもうしょうがないし、もう本はいいやと思って「もう買いません」と言って、みんなもぞろぞろ行くので飛行場のほうへ慌てて行ったんです。
それで、今どき珍しいですけれども向こうでは今でも多々ありますが、外からこう階段で上っていくような飛行場です。そこで階段を上って飛行機にそのまま乗ってしまえばそれはそれまでだったんですけれども、また何かこう、やっぱりあの本は買っておいたほうがいいのかもしれないなというふうに、本当にそれはもう理屈じゃなくてそういう感じで、また戻りまして、もうそのおやじにお金を出したらまた「おつりがない」とか何とか言っていて、もう面倒くさいから「おつりはいらない」。かなりなおつりだったと思うんですけれども、もう面倒くさい。それにしても、2000円とか3000円とかそれぐらい。向こうの人にとっては大変なお金なんですが、日本円にしてそれぐらいのお金を「おつりはいらないから」と言ったら、もう目が点になっていましたけれども、それで本をひったくるようにしてもらって、走って飛行機に乗りました。それで帰ってきました。
すぐに放送するということだったので、今言ったオルーロのカーニバルの編集等々に1か月ぐらいかかって、ふと終わってふと一息ついたときに、そういえばあのオルーロのカーニバルの帰りに飛行場で買ったんだよなというその本がありました。またゆっくり見ていると、本当に「この本は何なんだ」という本でした。調べると著者名は書いてあるんですけれども出版元もよく分からないし、僕はボリビア買ったんですけれども、住所はブラジルになっています。そこから僕の仲間などの力も借りてインターネットで探ったりいろいろやって、結局、その本を書いたというか、写真もほとんど撮っている人に突き当たります。
これはボリビア人の元記者で、当時このゲバラがイゲラ村で殺されたあと、直後にそこに来て写真を撮ったりした男だったんですね。ボリビア政府は、アメリカも結託しているんですけれども、「ゲバラは戦闘で死んだ」というふうにずっと最初のころは言うわけです。捕虜にしたあと殺したというのは、厳密に言うとジュネーブ協定違反にはならないらしいんです。それはなぜかと言うと、ゲバラたちは正規軍じゃないので、どこの国の軍隊でもないですから、ゲリラですから、スパイと同じような扱いにされて、殺してもジュネーブ協定違反にはならないんだけれども、いかにも世界じゅうから批判が起きるだろうと。「捕虜にしたあと殺した。しかもゲバラみたいな人間を」ということで、アメリカのCIAやボリビアの国軍は、あくまで「ゲバラは戦闘中に死んだ」と最初は発表するんですね。ところが、このイゲラ村に連れてきたときに、もう村人たちがみんな戦闘で死んでいないのは見てしまっているわけで、それで彼らとしてはいろいろとごまかす手を考えて、つまり「戦闘中の負傷が元でイゲラ村に来てから死んだ」というふうに発表を変えるわけです。何時間か半日以上たってから、バジェグランデというところに運ばれて、そこで遺体を公開しました。
そのときにさっき言った男、レイナルドさんというんですけど、まだ当時はもちろん若かったんですけれども、医者でありながら地方、多分へき地を回る若き医者だったんでしょう。と同時に、記者というまではいかないと思うんですけれども、多分、地方の新聞に投稿することが好きで、何か田舎のネタを通信みたいなこともやっていたんですね。それで彼は「バジェグランデにゲバラが運ばれてくる」というのをラジオで聞いて、すぐに行くわけです。それで、見ているとどうもゲバラの体は柔らかいし、触るとまだ温かいし、死後硬直も起こしていないし、これは国軍などが発表した時間などとどう見てもずれがあるということで、彼はつまりイゲラ村で、ほんの数時間前に殺されたんだということに気が付いてしまうわけですね。
それでそれを発表しようとするんだけれども、それを発表できずに、彼はボリビアからブラジルへ国境をバスで越えて、命からがら逃げて、それから三十数年、そのままブラジルに住んでいるということだったわけです。それから前にも言ったウリアさんという人、本当にゲバラが生きている間の最期の何時間かを共にした人がおり、死んだあともそういうことを見抜いて、彼自身の人生もそのことによって非常に大きく変わってしまうわけですけれども、そういう人間がいて、これはもう、またNHKをだまさなくてはということになって(笑)。
それで、次はオルーロが終わったら、すぐにレイナルドさんという人を探し、コンタクトを取り、ウリアさんはその1年後のときに会っていますから、手紙とかメールでやり取りをして。それで、またその年も、つまり去年ですけれども、11月からボリビアに行き、その足でキューバまで行って、それでゲバラの最期を共にしたウリアさんの証言を中心にしたドキュメンタリーを結果的には作りました。NHKのハイビジョン特集、BSハイビジョンでもう2回放送されたんですけれども、今月の20日にBS2でやりますので、もしBS2が見られる人は4月20日の午後4時10分か何かからやります。およそ2時間の番組ですが、絶対に面白いですから見てください。
それで、つまり何が言いたいかというと、今お話ししたように、すべて僕の旅、あるいは結果的に仕事になったりもするんですが、やはり自分が旅をして、いろいろな出会いがあって、そのことがまた次の旅につながったり、次の出会いにつながったり、仕事につながったり。僕というのは、そんなところからそうやってタイトロープみたいな、綱渡りに近いんですけれども、旅をすることによって次の旅が見えてくるし、次の旅が始まるし、旅をするということは、少々きざに言えば生きるということそのものなんだろうと僕は思っています。だから、本当に止まらずに旅をすることで次の道が開けてくるということを僕は本当に実感していますし、そういうことがまた仕事にできたりすることを非常にラッキーだと思っています。
じゃあ、いつこういう旅をやめるのかということはまだ全然考えていませんけれども、取りあえずはこの五大陸を行く旅のプロジェクトで、最後のユーラシア横断というのが残っているので、まずはこのオートバイで仲間たちとユーラシア大陸を横断するというところまではもちろんやろうと思っています。もう58なので、恐らく60になると思います。
ついでに言いますけれども、「団塊の世代」とか散々、今、言われております。「2007年に大量退職」とかといろいろと言って、「あのおじさんたちは、これからどうするんでしょう」みたいなことを言われていますが、余計なお世話なんですね(笑)。これは僕だけではなくて、僕の周りにはそういう人がたくさんいまして、七転八倒して生きてくることはもう二十歳のころからそういうふうに生きてきました。これから仕事をどうするかなんていう不安は、もう二十歳のときからとっくに毎日のように味わってきましたし、それでも何とかやってきました。僕の周りにもジャンルを問わず、そうやって生きてきたやつがたくさんおります。今こそ、あるいはこれからこそいろいろなことができるんじゃないかと、したいなという人間もたくさんいます。「『セカンドライフはそばを打つ』とか、ふざけたことを言ってるんじゃねえ」という声をあげながら、この先もまだもちろんしぶとく旅をしていくつもりです。
最後に一言言いますが、これは南米大陸じゃないですけれども、北米のアリゾナにアーコサンティーという共同体のようなものがあります。これはパオロ・ソレリというイタリアの建築家がリーダーになって、1975年ぐらいからやっていますから、これも30年になるんですかね。いろいろなある種の、何て言うんでしょうかね。アーコロジー、アーキテクチャーとエコロジーとを合わせたような造語なんですけれども、つまり自然の中で、自然のエネルギーをなるべく使いながら、効率のいい快適な建築空間を作るというようなことなんでしょうか。それの集合都市、ある種の実験的な未来都市をずっと作り続けている連中がいます。もう30年か40年たちます。
彼らの青写真はものすごいもので、今のところ30〜40年たって、全体の0.5%ぐらいですね(笑)。「全部できるのは何年かかるんだ」と言うと、500年と言うやつもいるし1000年と言うのもいます。ただし、これは要するにカルトでも何でもなくて、実際、着実にきちんきちんと微々たる動きですけれども建築を作り、道路を作り、さまざまな温室で野菜を作ったり、もちろんそこで暮らしながらやっていますから非常に合理的な考え方で作られていますし、カルトな集団では全然ありません。ただし、500年か1000年かかると。つまりそこにかかわっている人間は、だれもそれが出来上がるところを見られないわけです。それどころか、もしかしたら死んだあと、そのプロジェクトそのものがなくなるかもしれないし、経営的にも経済的にもいつも苦しい状態でやっていますから、そのパオロ・ソレリというリーダーが亡くなったあとどういうふうになっていくかということはだれにも分かりません。
ただ、今ある自分たちが描いた理想なり目的に向かって歩んでいく。そのプロセス、人間の人生はすべてプロセスではないか。いつも自分はどこかへ向かう途上にいて、どこかに着けないかもしれないし、何もちゃんとした形になるものは手にできないかもしれない。でも、どこかへ向かって歩き続けていくということが、あるいはそのアーコサンティーのスタッフたちに言わせれば、自分たちが引いた図面に向かってものを作り続けていくということが自分たちの人生なんだということを堂々と言いながら生きていける人間たちは、やっぱりかっこいいし幸せだと僕は思います。何を手にしたとか、何を手に入れたとか、どこにたどりついたとかというせこいことではなくて、どこに向かっているのかということが堂々と言える生き方をし続けられたらいいなと思います。
この南米1周で、日本人のスタッフたちはいつももちろん日本にいますし、しょっちゅう会ったり、酒を飲んだり、ばかなことをして「次の旅はどうしよう」などとやっているんですけれども、本当はその旅その旅ごとに、日本人のスタッフだけではとてもやりきれずに、現地でいろいろとサポートをしてくれたり、一緒に旅をしてくれる人間がいます。もちろん言葉の問題もあります。それで、その都度そういう人間たちが大親友になります。それもこういう旅の非常に大きな財産です。

旅を通じてやっぱりいろいろなことがあります。実際は楽しいことばかりじゃなくて、結構つらいこともあるんだけれど、やっぱりそういうことを共に体験して、わがままも出たり、弱いところも出たり、ずるいところも出たりするようなことをお互い見ながら、それでも一緒にいられる友ができたりするのも、旅のおかげだと思います。それぞれがみんな守られたところで、格好をつけていられるところで、いくら「本音で付き合おう」と言ったって、なかなかそうはできない。そういう意味でも、僕にとって旅というのは本当に欠かせないというか、生きていくことそのものだと思っています。別にまとめる気は全然ないんですけれども、これからもどこかに向かって旅をし続けていきたいなと思っております。どうもありがとうございました。
編集・内沼晋太郎


