KONDO AKITOSHI

革命後の1963年にキューバに渡り、一ヶ月余の間キューバに住む人々と生活を共にした日本人カメラマン、近藤彰利による写真展『60年代のキューバ』。
TOKYOHIPSTERS CLUB 2Fフリースペースにて開催されたこの写真展のオープニングレセプションとして、2007年3月17日、作家・戸井十月氏を聞き手にトークショーが開催された。
戸井: 近藤さんとは、今回初めてお会いしましたが、写真は見ていました。キューバ大使館の入り口にちょっとした待合室というか、座るところがありまして、そこの壁に飾ってあるあれ(*1)ですよね。そうですよね。
近藤: そうです。あれ(*1)です。
戸井: ゲバラやフィデルをずっと撮ってきたカメラマンはたくさん有名な人がいるので、そういう人の写真だろうと思っていたら、あるとき「これは日本人が撮った写真よ」と伺って驚いて。それを撮られたのが近藤さんだということを、あとから知りました。革命が起きたのは59年ですから、そのころ僕は11歳ぐらいです。それで、ゲバラが死んだというか殺されたのが67年ですから、僕たちの世代、口うるさく団塊だ団塊だと言われている僕たちが、ちょうど大学に入るか入らないかというときに、ゲバラが死んだ。非常に衝撃を受けました。
近藤さんは現在、あと1〜2か月で、ちょうど78歳だと伺いました。今日は、大先輩であり、60年代のキューバをその体で体験された近藤さんに、そのころどんな感じだったかというようなことを、ミーハー的に聞きたいというのが、正直な気持ちです。

近藤: まず、何で63年にキューバへ行けたかということを簡単にご説明します。キューバ革命から3年経って、3周年記念で国際写真コンクールを開催したんです。私は当時、日本ジャーナリスト会議というのに入っていたのですが、そこが日本から応募の仲介を引き受けたんです。そのテーマが「帝国主義と戦う諸国人民」というテーマだったんです。私はその前に、砂川の米軍基地拡張反対運動の写真をずっと撮っていまして、それがテーマにぴったりじゃないかと思って、5枚ばかりを組にして出したんです。そのジャーナリスト会議が送ってくれたんです。ほかに20人ぐらい応募したらしいです。募集して、世界から国や人種の別なく、とにかく優秀作品を10人選ぶと。その人たちは、翌63年の1月の革命記念日の集会に招待しますと。それから1か月間、キューバ全国を連れて歩いてくれる、という募集規定だったんです。
それは5月か6月に出したんですけれども、それっきり何の音沙汰もなく、10月に例の、皆さんもご記憶かどうか分からないけれども、キューバ危機というすごい事件が起きたんです。フルシチョフがミサイルをキューバへ持ち込むと。それをアメリカが絶対に許さないと。あわや、というところまでいったことがあるんです。そのときに、その騒動で、写真コンクールなんてどこかへ吹っ飛んじゃったんですかね。こっちも出したはいいけど、何の音沙汰もないので忘れちゃっていたんです。
そうしたら、明くる年の63年4月に、急に大使館から呼ばれまして、「君は、去年募集したコンクールで入選している」と言うんです。「行く気があるか」と言うんです。「行きます、行きます」ってね。行く気があるかどうかじゃなくて、「ぜひ行きます」って。それで行ったというのが、キューバへ初めて行った理由なんですよね。
戸井: そのときは、近藤さんはおいくつで、仕事は何をされていたんですか。
近藤: 33歳で、フリーのカメラマンでした。
戸井: 報道ですか?
近藤: 報道といえば報道ですが、フリーで、いろいろな雑誌やなんかに写真を撮って。カメラ雑誌やなんかが主だったんですけど、それと労働組合の機関誌とかね。そういう仕事ばかり。
戸井: それで、「入選しています」といわれて、その当時は、日本からキューバに行く場合はどういうふうに行くんですか。
近藤: これがまた大変なんですよ(笑)。キューバが送ってくれた切符が、BOACって、今はそう言わないらしいですけど、イギリス航空ですね。あれで、香港、バンコク、ニューデリー、それから何かサウジアラビアのどこか、それから……。
戸井: 西に回って行くんですね。
近藤: ええ、レバノンのべイルートですね。そこへチェコの飛行機が迎えに来て、それが2日も遅れましてね(笑)。それでプラハへ行って、また2日ぐらいキューバの飛行機が来るのが遅れて。キューバのブリタニアっていう大きな飛行機なんですけど、飛行艇みたいで、何か大西洋に落ちても5時間ぐらいは大丈夫だという飛行機(笑)。その代わり、スピードは遅いし。それで大西洋を越していくんですけれども、イギリスのアイルランドのガンダーというところとか、それから大西洋を渡ったら、カナダのニューファンドランド島というのがあって、あそこへ止まって、それからキューバへ一路南下するということで、結局1週間かかって。
戸井: 行くだけで?
近藤: ええ。4月30日の午後、ハバナへ降りたんです。
戸井: チェコの飛行機が2日遅れたとか何とかで、その止まっている間は、宿に泊まるんですか。細かいことですけど、宿代とかはキューバが出してくれるんですか。
近藤: そうです、そうです。
戸井: ああ、いいですね(笑)。そのころのほうが景気がよかったんですかね。
近藤: いや、よくないと思うんですけどね(笑)。とにかく1か月間、無料招待で。旅費と滞在費と、それから外務省のICAPという団体がありますよね。Instituto Cubano de Amistad con los Pueblosという、キューバ諸国民友好協会といっていますけれども、そこが30台のキャデラックを持っていたんですよ。それで全国を1か月間回ったんです。
戸井: そのときは、日本からは近藤さんお一人で?
近藤: 私だけです。
戸井: ほかには、どんな国のどんな人たちが来ていたんですか。
近藤: ほとんど社会主義国の連中でしたね。イギリスとイタリアの人は、入選したにもかかわらず、政府の圧力か何か知りませんけど、どういうわけか不参加でした。
戸井: 僕が初めてキューバのハバナに行ったときは、1985年か1986年でした。僕はメキシコから行ったんですけど、真っ暗なカリブ海に月か何かがよく映えていて、それを越えてだんだんハバナに下りていくと、また真っ暗な中に、80年代半ばなのにまだ裸電球か何かで、軍服を着た女性たちが入監をやってくれる。「この国はまだ、相当、大変だな」と思えた。近藤さんがいらしたのは、それよりさらに20年前ですよね。ハバナなんて、真っ暗だったんじゃないですか。
近藤: なかったですよ(笑)。
戸井: ああ、そうですか(笑)。やっぱり何か、昔のほうが景気がよかった?
近藤: こんなことを言っていいかどうか分からないけど、革命前の遺産がいっぱい残ってたんですよ。だから、ホテルも、今の貧相な食事じゃなくてね。私なんか、毎日いっぱいごちそうが出て、食べ切れなくて困ったんです。
戸井: 今、またすごくよくなっていますよ。
近藤: そうですか(笑)。
戸井: はい。いや、これは本当にそう思います。良いか悪いか分からないですけど、観光地はすごいことになっていますね。近藤さんが初めていらっしゃったときは、よくも悪くも、バチスタの遺産みたいなものがそこここに残っていたと。
近藤: そうですね。
戸井: それで、ハバナに着かれて、お迎えが来ていて。
近藤: そうです。
戸井: それでもう、宿にどっと行くわけですか。
近藤: ええ。リビエラというホテル、今はちょっと格が落ちちゃいましたけど。
戸井: そうですね。いや、最高級です。
近藤: 当時は、リビエラとアバナリブレとナショナル、この三つが一番大きかった。
戸井: そうですね。アバナリブレはもともとアメリカの……。
近藤: ヒルトンですね。
戸井: ヒルトンですよね。革命軍がハバナへ入ったときに、あそこに本部を置くんですよね、あのロビーにね。リビエラは海岸のほうにあって。
近藤: そうです。
戸井: 今はちょっと、もう廃墟みたいになっていますけど。
近藤: 廃墟かどうか(笑)。その隣にでっかいのができちゃったから。新しいのがね。リビエラは、そのころはきれいでしたよ。
戸井: そこから全国を回られたんですか。
近藤: そうです。
戸井: どんなところへ行かれたんですか。
近藤: まず西に向かって行って、ピナル・デル・リオだとかあの辺に行きまして、間の農場とか、結局、キューバが見せたいと思う農業建設が進んでいる農場ですね。それとか、新しくできた養鶏場だとか、そんなようなところを歩いて。そのあと、一度、常にハバナへ帰ってくるんですよ。ハバナから次の計画書がまた渡されまして、今度は東部へずっと行って、サンタ・クララだとかサンティアゴだとか、大体、全国をぐるっと大ざっぱに歩いたんですね。
戸井: そのときはお偉いさんというか、カメラマン仲間のさっきおっしゃっていたサラスさんとかリボリオさんとかが先導してくれて、ずっとくっついて?
近藤: そうです、その二人が。キャデラックにカメラマンが3人ぐらいずつ分乗して行ったんですよね。
戸井: ここを撮っちゃいけないとか、これを撮っちゃいけないとかそういうのは?
近藤: いや、それは全然ありませんでした。
戸井: ここの今回の写真は、その旅のときに撮られたものが多いんですか。
近藤: そうですね。あとは67年のもあります。これがまた非常に、私にとっては運がいいのは、63年に行ったときの写真を、私は非常に世話になったので、キューバに四つ切にして100枚ぐらい自分で伸ばして、大使館に頼んで、外務省に送ってもらったんですよね。その中に、私の撮ったゲバラの写真が、7〜8枚入っていたんです。彼が10月にボリビアで戦死しまして、全国からゲバラの写真を政府がかき集めたんですね。で、ちょっとそれ貸して、みたいな感じで、私の写真なんてことは全然知らずに、勝手にレコードのジャケットになったり。
(一枚の切り抜きを指して)これは、革命広場の右前にある、15階建ての国防省のビルなんですが、そこの壁いっぱいに、このように飾られんですね(笑)。
戸井: これは近藤さんの写真だったんですか。
近藤: ええ。上のカミロは、完全に絵ですが、下のは、私の写真ですね。面白いことに、サラスが切り抜いて送ってくれたんですよ。ここにサインペンで「これは確か、君が撮ってたあの写真じゃないか」と。
戸井: 「勝手に使ってるぞ」と?(笑)なるほど。あと(別の写真を指して)このときの状況をお聞きしたいんですけど。最後のほうで、こういうチャンスがめぐってこられたと聞きました。
近藤: そうです。私が出かけるときには、とにかくカストロ首相と、たばこと、砂糖しかキューバについての知識がなかったんですね。それで行って、4月30日に着いて、明くる日がメーデーの集会です。壇上を見たら、カストロ首相がいないんです。えっと思って、周りのキューバ人に聞いたら、「今、モスクワへ行ってるよ」っていうことなんです。これはカストロの写真を撮れずに帰らないといけなくなるのかなと思って、がっかりしちゃったんですよ。
そして、1か月、忙しく全国を歩き回って、帰る日が近づいちゃったんです。そうしたら、6月3日に外務省から連絡があって、「フィデルがモスクワから帰ってきたよ」と。「今晩、テレビで報告演説をやるから、それを取材してから帰れ」といって、我々の帰国を延ばしてくれたんです。
それで、またキャデラックへ乗っかって、テレビのスタジオへぞろぞろと行ったわけですよ。そうしたら、閣僚たちがだーっと観客席にいまして、一番前に、ちょっとこんな感じで小高くなっていて、カストロ首相がいて。8時半ごろ始まって、終わったのは12時半でした(笑)。
戸井: もういい加減にしてくれっていうぐらい(笑)。
近藤: 私は、その間、自分の席からフィデルの演説をずっと撮っていたんです。三十何枚撮ったかな。確かに長いんです。私は不幸にして戦争中の生まれで、小学校の1年のときに日中戦争が始まって、小学校の6年のときに第二次大戦が始まって、中学2年から勤労動員で工場へ行って働かされていたものですから、ろくな勉強をしていないんですよ。大学を受けるので、あわてて英語なんかをちょろちょろとやって。今考えると、終戦直後の大学の入試って易しかったんですね。だから、本当につけ焼き刃の英語なので、キューバへ行って通じるはずがないんですよ。向こうの言っていることは1割ぐらいかな。
戸井: もちろん、スペイン語も全然できない?
近藤: スペイン語は全然。生まれて初めて聞いたわけです。あのころは、1ドル360円もしまして、海外旅行というのはものすごく難しかった時期なんです。ただ、キューバが招待してくれたので、日本の外務省も割合に素直に旅券を出してくれて、1週間で出発できたんです。向こうへ行って、カルチャーショックって言うんですか。受けますしね。日本はまだ、ビルなんかは普通のデパートの高さでしたから。向こうへ行ったら、もう24階とか27階。
戸井: 逆に向こうのほうがすごかったんですね。
近藤: 向こうのほうがはるかに進んでたんです。
戸井: なるほど。
近藤: ご存じのように、港の入り口の海底トンネルなんか、すごい設備だなと思ってショックを受けたんです。はるかに進んでたんですよ。
戸井: そのとき、今ちょうどお話が出ましたけれども、日本の政府というか外務省とかは、例えば、キューバに行くなんていうのを、何か嫌な顔をしたり、嫌がらせしたりはしなかったですか。
近藤: それはしなかったですね。その代わり、キューバへ行って、こんなはるばると日本から来たので、日本の大使館にやっぱりあいさつに行ったほうがいいんじゃないかと。
戸井: もう日本の大使館はあったんですね、もちろん。
近藤: もちろんありましたよ。今のところより、もっとずっと便利なところにありました。それで、私が行ったら、参事官か書記官か知りませんけど、「何で君はこんなところにいるんだ」って言うんですよ。「何でいるんだ」って言ったってね。
戸井: 招待されてるのにね(笑)。
近藤: 私は「キューバのコンクールで入選して、招待されて、1か月間いるので、ごあいさつに伺ったんだ」と言ったら、「こんな国はだめだよ。あと2年たてば、絶対つぶれちゃう」と。「こんなところでもたもたしてないほうがいいよ」と言うんですよね(笑)。
戸井: とんでもないですよね(笑)。
近藤: それでもう、こっちも頭へ来ちゃいまして、もう二度と来まいと思って、それから以後、8回キューバへ行っても、絶対に日本大使館に行かないことに(笑)。
戸井: でも、その後の日本の大使館の人たちは、みんないい人ですよ。歴代の在キューバの日本大使たち、あるいは書記官や参事官は、ほとんど戻ってきてからみんな本を書いているんです。
近藤: ああ、そうなんですよね。
戸井: みんな、それは非常に愛情のこもった本ですね。最初はどんなもんかなと思って行ったんだけど、結局、みんな、キューバにやられてしまって、キューバのファンになって帰ってくるという。多分、近藤さんのころはまだ……。
近藤: 悪かったんですね。
戸井: あんなところに(笑)。要するに、左遷感覚だったんでしょうね、きっとね。
近藤: とにかく、「こんな国は、絶対に2年でつぶれる」と。「カストロはいい気になって政府を作ったけど、民衆が立ち上がって、必ず倒しちゃう。だから、こんなところにもたもたしていないほうがいい」みたいなことを言うんですよ。だけど、あれから44年たって、立派にやっているじゃないですか。
戸井: そうですよね。それで、さっきのこの続きなんですけど、この演説で、このテレビ収録をしているときにずっとこうやって撮られていたと。
近藤: 撮っていました。
戸井: あれは、どういう?スタジオの中ですか。
近藤: 4時間の演説が終わりまして、放送用のライトがばっと落ちて、小さなスポットが残っていただけなんですよ。そうしたら、今まで観客席にいた閣僚だとか政府の幹部、党の幹部たちが、みんな、カストロの席へ、前へざっと出て行って。1か月ぶりでカストロと会ったわけですから、「どうもご苦労さん」という感じで。みんな、あいさつを交わしたんです。そうしたら、ゲバラは最後に座っているところから出て来まして、何か話し始めたんですよ。これが長くて、15分か20分ぐらい話してたんです。
戸井: 二人で。
近藤: 二人だけで。私は日本の集会や労働運動の写真を撮っているから、ちょろちょろって間をぬって写真を撮るのは普通でした。だから、このスタジオへ行っても、黙って自分の席から抜け出して、撮っていたんです。
この(トーク会場の)裏に、ゲバラがリラックスした感じで自分の席にいる写真が、でっかく貼ってありますけど、
戸井: あれもそのときの?
近藤: ええ。あのときなんかも、私が1mぐらいのところまで寄って撮るものですから、ゲバラが「こいつは変わった男だな。もう、それくらい撮ればいいだろう?」っていうような顔をして、にっこりした。その写真は、うちにありますけれども(笑)。
戸井: それを飾ってくださいよ(笑)。別に嫌そうな顔はしていないんですね。
近藤: 今から想像しますと、恐らくスタジオへ行く前に、外務省のほうから取材にあたっての注意みたいなのがあったんだろうと思うんですよ。演説の邪魔をするなとか。
戸井: ちょろちょろするなとか(笑)。

近藤: ところが、私は全然、英語もスペイン語も分からないから、そんなのは馬耳東風だったわけですね。自分の、日本でやっているとおりの取材の仕方でいっていたんです。だから、あの写真を撮っているとき、1mですよね。あれは明るく映っていますけども、あのころ日本のフイルムは、私は貧乏で、富士フイルムを持っていたんですよ。ASAというのは、感度が10なんですよね。今、そんなのは逆立ちして探したってないんですよ。
戸井: ないですね。
近藤: 今は、100か200が最低です。10ですからね。フラッシュなしで撮るのに、レンズはF2の開放で、15分の1で撮ったんです。よく手ぶれしなかったと。
戸井: よくぶれていないですね。あの二人も、よく動かないでいたと(笑)。
近藤: フィデルの手先がぶれてますけどね。
戸井: ちょっとはぶれていますけど。でも、相当こう固まって、真剣な話をしてたんですね。
近藤: そうなんですよね。
戸井: 恐らく、モスクワから帰ってきて、ソビエトでどういう話をしてきたのかとかそういうことを多分。
近藤: 「これからが大変だよ」というような話をしていたんじゃないかと思う。
戸井: そうでしょうね。つまり、このときはもう、要するにさっきおっしゃっていた10月危機のあとですから、ゲバラとしては、もうソビエトというものに対してかなり不信感を抱いている。
近藤: かもしれないですね。
戸井: フィデル・カストロは、それでもそうやって商売を……
近藤: やらざるをえないというね。
戸井: ソビエトと商売をしていかないと食べていけないという微妙な中で、二人は連日こういう話をしていたのかもしれないですね。
近藤: でもこれを、別れの写真だというふうに言う人がいるんですよね。この写真を見て、二人がけんか別れをして、ゲバラが出て行くときの写真だと、ものすごくうがった見方をする人がいるんですけども、そんなことはないんです。63年には、まだまだ全然そんな、路線の対立なんてなかったですからね。だから、一番頼りになるゲバラに詳しく話していたんだと思いますね。
戸井: ゲバラは、フィデルがずっと演説するときには、みんなと一緒の席に座って?
近藤: そうです。それもこの(トーク会場の)裏に張ってあります。それは普通に、大勢。隣にカミロの弟さんなんかも座っていますね。あとになってからキューバ人の人に「これはカミロの弟だ」と教えてもらったんですけど。
戸井: 近藤さんがちょろちょろとして写真を撮っているのを、だれか文句を言ったり、にらみつけたりとかは?
近藤: だれも文句を言わなかったんです。不思議ですね。
戸井: キューバの人たちって本当にそういう人が多いですよね。
近藤: でも、その後、カストロ首相の暗殺計画というやつが何回もあったでしょう? だから、私は、1回目のときは1mまで寄れたんです。2回目のときは7mぐらいでしたかね。3回目のときは10mに、というふうに、親衛隊が周りを固めるようにだんだんなって。
戸井: ああ、そういう時期があった。
近藤: ええ、撮りにくくなってきました。だから、戸井さんはフィデルに会いたくて、会いたくて、あんな立派な本を書かれたんだけど、そういう点では私は非常に運がよくて、1回目に行って、いきなりそんな1mの近くで最初から撮れて。
戸井: そのときには言葉はお分かりにならなかったとおっしゃっていましたけど、何かやりとりはなかったんですか。
近藤: 私はもう、無心に写真を撮っていました。スペイン語ができれば、きっと、何かお話を聞けたんだと思いますけどね。
戸井: この人たちって、日本の政治家と全然違って、本当にいろいろとしゃれたことを言うんですよ。彼らは本当のインテリで頭がいいので、何と言うんでしょう。何か聞いたりしても、おしゃれなことを言うんですよね。
それで、近藤さん、63年のときは、およそ1か月間、その旅をして帰られて。次は67年の?
近藤: そうです。さっき、話が途中で飛びましたけど、67年に、私の写真が使われているなんてことは夢にも気がつかなかったわけですね。
戸井: こんなにでかい。
近藤: そうしたら、そのお礼だったのだろうと私は思っているんですけども、大使館が私に、今度はいつ行っても、いつまでいてもいい、という招待状をくれたんですよ。恐らくあんな招待状はないでしょうね。
戸井: そんなの聞いたことがないですね。でも、招待状じゃ飛行機に乗れないじゃないですか。
近藤: いや、飛行機の切符ももちろんですよ。
戸井: チケットもあるんですか。すごいな。
近藤: ええ、そう。いつ行ってもいいと言うんですよ。いつまでいても構わないと(笑)。私はひどく感激しちゃって、いくらゲバラの写真を使ってもいいよと思った(笑)。それで、12月から3か月間。いつまでいてもいいと言われたって、そう長くいるわけにもいきませんからね。
戸井: 67年の12月から行かれたんですね。
近藤: ええ、67年の12月から3か月。
戸井: ということは、その2か月前にチェ・ゲバラは殺されているわけですね。
近藤: そうです。
戸井: 10月8日に。7日か、8日か。
近藤: だから、キューバの対応がひどく早かったんですね。
戸井: そのとき行かれたときは、チェが殺されたということをもちろんみんな知っていて?
近藤: もう、その追悼の雰囲気が、全国にみなぎっていましたね。すごかったです。
このときは、私は、今度は一人でまたキャデラックを貸してくれまして、案内の人と運ちゃんと3人だけで全国を今度はくまなく、この前、サラスたちと歩いたときよりもはるかに詳しく歩けたんですよね。
帰ってきてから、それらの写真が日本の雑誌やいろんなところに、固いところでは百科辞典から、ちっちゃいのはマッチのレッテルにまでなったりして、すごくよく買ってもらえたんですよ。おかげで、私は約20年間は、キューバのおかげで生活できたんです(笑)。
戸井: キューバ様々ですね。
近藤: キューバへ足を向けて寝られないっていう感じなんですよね。

戸井: 近藤さんは、当時、いわゆる大ざっぱに言っちゃうと東西冷戦とか言われて、西の資本主義諸国があり、東の社会主義諸国があって、それに対峙しながら拮抗していたわけですけれども、ほかの東欧だとかソビエトも含めて、社会主義国はいらしたことがあるんですか。
近藤: 2回目に行ったときは、帰りにアメリカの検閲がうるさいというので、ソ連回りで帰ってきたんですよ。
戸井: そのときは、しばらくソビエトにいたんですか。
近藤: いや、3日か4日。ソ連からも一人、入選して、63年に行ったのが、私は住所を聞いていたので、訪ねて。
戸井: モスクワですか。
近藤: ええ、いろいろとモスクワを案内してもらって。
戸井: 一口で、キューバは社会主義国だし、当時はもちろん、ソビエトと仲よくしていかなくちゃ、いろいろとやっていかなくてはということもありましたけど、僕はもう、全然違う国だと思うんです。社会主義だろうが何だろうが。僕は、キューバが社会主義だろうが何だろうが、経済体制がどうであれ、キューバという国は世界に一つしかない、本当に素晴らしい国だと思うんですけれども、近藤さんは、都合8回ぐらい行かれているわけですよね。
近藤: ええ。
戸井: ほとんどいろんなところを見て回っていると思うんですけど、嫌な思いとか嫌なやつに会って嫌な思いをしたとか、相手が役人であろうがお偉いさんであろうが、そういうことはありますか。
近藤: それはあります。
戸井: やっぱりありますか。いました?
近藤: 時々ね、ええ。でも、やっぱり全体として、ものすごく心が温かくて、親切で、いわゆるスペイン語でカリニョーソという人が多かったです。だからこそ、私は44年間もキューバとの友好をずっとやってこられたと思うんですよね。
向こうへ行って、さっきお話ししたように、さっぱり分からなくて、1回目は本当に心細かったんです。ところが、スペイン語を聞いていると、何かイントネーションが日本語に似通っているところがあって、これは事によったら、習ったら何とかなるんじゃないかと思って。
それで帰ってきてから、私のうちが大使館の割合に近くに住んでいたもんですから、大使館の人たちに、向こうでお世話になったお返しをしたいと思って、「うちにも遊びに来てください」と、遊びに来られて話が全くできないのではお話にならないから、NHKの「スペイン語講座」を、当時はラジオでしたけど、全部、録音して、暗室の仕事のときなんかはだーっとかけっぱなしで聞いてて。だんだん覚えてきた。それと、大使館の日本人の通訳の人が、また親切に教えてくれましたから、それで、いつの間にかしゃべれるようになって。だから、2回目の67年に行ったときは、結構、話せるようになってましたね。
戸井: スペイン語っていうのは、いくつかのルールさえ覚えれば、発音とかはしやすいですもんね。
近藤: 楽ですね。
戸井: 近藤さんにとってはキューバの何に一番はまったんでしょうかね。
近藤: やっぱり人情でしょうね。
戸井: 人情。
近藤: ええ、一言で言っちゃうと。だから、本当に忘れがたい。この中で、キューバへいらしたかたはいらっしゃると思うんですけど、1回行くと大体やみつきになるというのがキューバの特徴ですね。
戸井: でも、ほかの国だって人情あふれる国はいろいろありますけどね。
近藤: 何となくキューバっていうのは、とにかくいいところなんですね。
戸井: 何か応援したくなっちゃうというか。これは僕も本に書きましたけども、僕も知らなかったICAPU(キューバ諸国民友好協会)ですけど、日本キューバ議員連盟というのが、もうずっとあって。これの委員長とかは代々自民党の人なんですよね。三塚博さんとか、それで副委員長が土井たか子とか、わけの分からない議員連盟なんですよ(笑)。
だけど、その自民党の、もうアメリカべったりみたいな人間たちもたくさんいるのに、キューバとの付き合いだけはやめないんですよね。日本なんかは、特に、アメリカべったりでほとんど来たのに、キューバとアメリカが例えば国交を断絶したり、経済封鎖をしても、日本は日本の、一応、スタンスでキューバとは付き合ってきて、そこだけは偉いなと思うんです。自民党の連中なんかに話を聞いても、社会主義であろうが何であろうが、キューバの連中はやっぱり応援したくなっちゃうと。
要するに、いろいろ厳しい時期もいくつかあって、ものがなくなったりいろいろと、そういう意味では危機が何度もあったんだけども、いつ行っても、みんなが上を向いて歩いていて、うつむいているやつが一人もいないと。ほかにも貧しい国や社会主義をやろうとして失敗した国はいっぱいありますけど、やっぱりどこかに悲惨さとか暗さがあるんだけど、キューバの人たちは本当に胸を張って上を向いて歩いているから、こっちが元気になっちゃうというふうに、みんな、よく言いますけど、そこら辺なんでしょうかね。
近藤: 全く同感ですね。私は、1回目に行ったときの印象は、言いようがなく怠け者で、そのくせものすごく、言いようがなく情熱的で、言いようがなく貧乏だけれども、みんな実に朗らかで。そういうようなところが、私も怠け者ですから、すごく親近感があって。
戸井: でも、キューバの人はラテンの世界の中では、ものすごく働き者だと僕は思いますけどね(笑)。50年前の車を今でも走らせて、すごいことです。
近藤: いや、何か本当、私が今まで、最初のころに行っているとき、あんな車はみんな隠れていたんですよ。あれは観光で売れ始めたんで、隠してたやつを引っ張り出して、直して、使っているんですよ。昔、あんなのは走っていませんでした。ただ、我々の乗ったキャデラックにしても、59年型、革命の年の前の型ですね。
戸井: でも、当時はもう。
近藤: まだピカピカしていました。あのICAPの30台のキャデラックもいつの間にかなくなっちゃって、その後はソ連製の車になったり、
戸井: そうですね。ラダニーバだとか。
近藤: アルゼンチンから来た車になったり、変わっていますけど、とにかくキューバのよさっていうのは、さっき言ったように、何とも言えず貧乏なくせに、ものすごく朗らかで、怠け者のようだけれども、非常に情熱的で。だから、この中にも写真がありますけども、コーヒーを植えるという運動が一度あったことがあるんです。70年にあって、日本からもサトウキビ刈りの勤労をしに70年から3年間行きました。
戸井: 僕はもう、さっきも言いましたけれども、キューバの人たちはすごくよく働くし、何しろ勉強が好きだと思っています。これはやっぱりフィデルやチェ・ゲバラたちがずっと、ともかく最初から言っていてずっと今でも続けている「教育」というものが大切だということで、それをずっとやってきた成果が、今のキューバの若い人たちにもちゃんともちろん受け継がれて成長しているんだと思うんです。
今現在の駐キューバの日本大使館の、ある参事官の方の話なんですが、この人は、自分がキューバから動きたくなくて、ずっと動かないでもう5〜6年いるんですね。今は奥さんが来ているんですけど、しばらく単身赴任だったので、自分も鬱っぽくなって、夜、毎晩眠れないときがあったときに、日本大使館に、田舎の出の黒人のおばちゃんのお手伝いさんがいまして、その人がそのときにカウンセリングをしてくれて「それはフロイトによるとこうでああで」(笑)。それで、改めてキューバの人たちはすごいと。「何でそんなことまで知ってるの」と言ったら、「当然でしょ」というように、おばちゃんは笑っていたという、そういうような話を、たくさん聞くんです。明るくて、陽気でということは当然あるんですけども、それ以上に何か……。

近藤: いや、一番、やっぱり。もっと言わせていただけば、人種差別がないということですね。それから、教育と医療が全部ただということなんです。あそこの辺にある写真でも、保育園から大学まで一切学費はかからないんです。その二つをちゃんと守っているというところは、すごく頑張り屋ですよね。
私が初めて行ったときには、調子に乗りすぎて、電話でも光熱費でも、全部ただにしちゃったんですよ。そうしたら、電話はかけ放題。みんな、町の中の電話がパンクしちゃったりね。無駄がすごく出ちゃったんです。それで、政府は驚き、医療と教育以外は、あわててまた有料に戻したんです。そんなこともありましたけど、とにかくあの二つを、今、世界できちんと守っているなんて国はないですよね。
戸井: ないですよね。食べ物も最低限のものはずっと保障してきていますからね。そのころ、もう今から本当に40年以上の、革命後3年ぐらいの、まだ革命の熱気がこう沸々とあり、これから自分たちの国を作ろうという空気がみなぎっているころのキューバの写真。これは別に過去のただの記録ではなくて、このときのキューバの空気というか、このときのキューバの人たちの表情というのは、今もずっと続いているという感じですよね。
近藤: そうですね。こういう写真は、いろいろな雑誌社に売ったあとで、みんな天袋にしまい込んであったんですよ。そうしたら、ここ(THC)の藤本さんが「それはもったいない。ぜひ、展覧会をやりましょう。最近は観光に流されすぎちゃって『明るく楽しいキューバ』みたいな写真が多くなっているから、ちゃんと筋の通った写真を、日本の若者に見せたい」と言ってくださって。
戸井: 最後に、キューバという国のこういうところを見てほしいというか、行ってほしいというようなことがあれば、皆さんにお話していただいて、それで終わりにしたいなと思います。
近藤: そうですね。すべていいですよ(笑)。何ていうか、どんな嫌なことにぶつかっても、必ずそれを取り返してくれるものをキューバ人は持っていますから。だから、私はあんまり、あれを見てきてくれ、これを見てきてくれと言う必要がないんじゃないかと思います。とにかくキューバへ行って、キューバ人と片言のスペイン語でもいいからおしゃべりをして、そして彼らのそのカリニョーソな人間性をくみ取ってくれれば、十分じゃないかと思います。
戸井: よく分かりました。私もそのとおりだと思います。ありがとうございました(拍手)。
編集・内沼晋太郎


