Raymond Queneau


Hipsters file 14
レーモン・クノー
アンドレ・ブルトン率いるシュルレアリスムは運動として組織されたもので、そこには色々な思想家や芸術家たちの、参加あるいは脱退という流れがあった。特にその中心人物であるブルトンはそこで大きな影響力を持っていたため、誰かを招き入れたり、あるいは容赦なく除名したりする権力を併せ持っていた。そのやり方に不満を持ち自ら脱退していくものも多かった。そしてレーモン・クノーもまた、ブルトンによって好意的に招き入れられ、自ら脱退していったメンバーの一人であった。
フランス・ノルマンディー生まれのレーモン・クノーは、学生時代に文学、数学、哲学、心理学を学び、1924年にはシュルレアリストたちの会合に参加する。しかしブルトンが試みたような自動記述などの方法を採用することはなく、友人の紹介と単純な関心によって議論に参加していた。その頃の体験は、クノー自身がその十数年後に書いた自伝的な小説『オディール』によって告白されている。フィクションの形式をとってはいるが、モデルと思われる実在の人物が多数登場し、シュルレアリスムをリアルに体験した人間が一定の距離を置いた目線で捉えた、貴重なドキュメントとなっている。クノー自身はその前後、1925年から1926年まで兵役にもついている。
シュルレアリスムと訣別した後、1932年に処女作『はまむぎ』を執筆。その前衛的な作風は当時はまったく評価されることはなかったが、のちのヌーヴォー・ロマンの原点ともいわれる。その評価の低さに憤慨したバタイユやミシェル・レリスが、クノーに贈るために「ドゥ・マゴ賞」を創設したというのは有名な話だ。第二次大戦後にパリの知的・文化的中心地となった「サン・ジェルマン・デ・プレ」に出入りし、サルトルやコクトー、ヴィアンなどとの交流をもつ。
そのクノーが一般的に文学的評価をされるに至るには、シュルレアリスムへの参加から30年以上もの時間を要した。それが1959年の小説『地下鉄のザジ』である。この作品自体も最初は受け入れられなかったが、出版翌年のルイ・マルによる映画化によって大ブレイク、ヌーヴェルバーグの先駆的な作品として、小説も高い評価を得るようになった。
彼は学生の頃から研究していた数学に可能性を感じていて、それは『オディール』にも多く描かれているが、1960年には、その数学をベースにした文学的な実験を行う集団「潜在的文学工房(ウリポ)」を発足。その頃には、訣別していたブルトンともお互いの存在を評価し、事実上の和解に至っているが、このウリポはいわゆるシュルレアリスム的な追求の仕方ではなく、遊びの要素を含んだラフな実験であった。
クノーのその独特のユーモア感覚が結実しているのが、代表作のひとつとして後年に評価された『文体練習』だ。出版されたのは1949年だが、これはひとつの他愛ない出来事を99の異なる文体で書くというもので、数学や論理学に幅広い見識をもっていたクノーだからこそできた芸当である。フランス語の教材としても使われるほど言語学的な評価も高く、また、言語表現の持つ可能性とその限界を同時に示したひとつの金字塔として、今なお読みつがれている。
1976年にその生涯に終わりを告げるまで、常に挑戦的な試みをしつつも、ユーモアを忘れないクノー。自分の考えを貫きながらも、そのつど方向修正していくクノー。その自由なスタンスと作品から、現代に生きるぼくたちが学ぶものは多い。
文・内沼晋太郎


