Pablo Picasso


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パブロ・ピカソ
プレヴェールと、もう一人、当時のパリで人々に愛された詩人を挙げるとすれば、ポール・エリュアールということになるだろう。ブルトン率いるシュルレアリスム運動に深く関わった彼は、その作品で頻繁にテーマとされることから「愛と革命の詩人」として称され、激しく移り変わる時代に生きる人々の心を代弁し、魅了する作家の一人であった。1937年、第二次世界大戦の前哨戦となったスペイン内戦中、ナチスによるゲルニカ爆撃のとき、エリュアールが書いた詩のタイトルを『ゲルニカの勝利』という。そして彼の親友でもあったとある著名な芸術家は、時を同じくして『ゲルニカ』という大作を描きあげた。そう、この時代の人々を紹介するならば、そろそろ彼の名を挙げないわけにはいかない。二十世紀最大の芸術家、パブロ・ピカソである。
ピカソは1881年、スペインのマラガに生まれる。美術教師の父を持ち幼い頃から美術に親しんでおり、現存する幼少期の作品を見ればその早熟ぶりは一目瞭然だ。美術学校に入学し、1897年に描いた『科学と慈愛』はマドリードで開かれた国展で佳作を受賞するが、王立アカデミーに進学した後、学校で学ぶことに意味を見出せなくなり退学する。以後、バルセロナの若い芸術家と交流し、そして後にパリに居を移す。それからは、基本的にパリを拠点として精力的な活動を続けた。
その作風が時代によって変化するのも、ピカソの魅力のひとつである。特に初期のほうから「青の時代」「バラ色の時代」「アフリカ彫刻の時代」「分析的キュビスムの時代」「総合的キュビスムの時代」「新古典主義の時代」と呼ばれ6つに大別されているが、ピカソを現在まで世に知らしめているひとつのターニングポイントとなったのが「キュビズム」の発見であった。ピカソが「アフリカ彫刻の時代」後期にあたる1907年に描いた『アビニヨンの娘たち』がその起源と言われる。理論的な説明はここでは避けるが、単純な立体を組み合わせたり角度を無視して平面に配置したりされることで対象本来の形が失われた作品群は、当時の人々に革命的な衝撃を与え、賛否両論を浴びた。
『ゲルニカ』は1937年、歴史上初めての都市無差別空爆とされるゲルニカ爆撃のニュースを知ったピカソが、依頼されていた同年のパリ万博スペイン館の壁画として制作したタペストリー作品である。以降、反戦のシンボルとして多くの人の賞賛を浴びてきた。1936年から1945年の間、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもっており、ピカソのよき理解者であった彼女はこの『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。この作品に呼応するように『ゲルニカの勝利』を記したエリュアールもまたピカソのよき理解者であり、のちの1956年、彼に『画家の仕事』という美しい詩篇を捧げた。
また、その人物像については、多くの評伝や伝記映画などが作られており、それぞれ様々な角度から描かれている。映画『サバイビング・ピカソ』(1996)は、ピカソをめぐる女たちの姿を描いた映画。前述したドラ・マールも含め、ピカソは数多くの女性関係を持ったことでも有名であり、2回結婚をし、3人の女性との間に4人の子供を授かった。また、記憶に新しいところとして、映画『モディリアーニ』(2004)では、ピカソは異端児モディリアーニに対する成功者であり、嫌味なライバル役として描かれる。
ピカソはまた、その一点一点の作品が素晴らしかったことはもちろんのこと、非常に多作な芸術家でもあった。実に13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作したといわれ、1973年に死去するまで描き続けた。彼の移り変わる作風は発表時には酷評されることがしばしばあったが、時代の側がそれに追いついていく形で、後に絶大な評価を受けることとなる。現在ではその作品は全世界的に多くの人々に親しまれているが、そういった意味では、常に前衛を走り続けた芸術家であったのである。
文・内沼晋太郎


