Jean-Paul Sartre


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ジャン・ポール・サルトル
ボリス・ヴィアンが生きていたころ、文学的に評価されたのはヴァーノン・サリヴァン名義で金目当てで執筆されたハードボイルド小説ばかりで、今日代表作とされる『日々の泡』などヴィアン名義の作品は全く評価されず、評論家にも酷評されていた。しかし1959年、彼の39歳の若すぎる死後、サン=ジェルマン=デ=プレ界隈で彼と日々を共にしていた作家や学者たちが発端となって、彼の作品を再評価する機運が高まった。
特に1968年のパリ五月革命以降、若者を中心に熱狂的に親しまれ、世界中の多くの言語に翻訳されるようになるのだが、それに大きな影響力を発揮したのが哲学者ジャン・ポール・サルトルであり、ヴィアンの著作『サン=ジェルマン=デ=プレ入門』に最も多く名前が登場するのもまた、かの哲学者であった。
1905年、パリに生まれたサルトルは、いわゆるブルジョワ知識人階級の中で育ち、1915年から名門リセであるアンリ4世校にて学ぶ。そこでポール・ニザンと、後に1924年に入学した高等師範学校ではモーリス・メルロ=ポンティと知り合う。1929年には後に事実上の妻となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、2年間の契約結婚を結ぶ。その後フッサールの現象学などに関心を抱き、教鞭をとりながら1938年には小説『嘔吐』を執筆。第二次世界大戦時には兵役召集されるものの捕虜となり、のちに釈放され1943年、哲学的主著である『存在と無』を執筆する。
『存在と無』を執筆したときのサルトルは38歳、『嘔吐』が高く評価されて5年、既に作家および批評家としては高い評価を得ていたが、哲学者としては、少しの論文は発表していたものの特に目立った独自の論を展開した書は発表されていなかった。発表直後も特に注目を浴びることはなかったが、戦後、ボーヴォワール、メルロ=ポンティらと発行し以後著作の多くを発表することになる雑誌『レ・タン・モデルヌ』の発行、講演録である『実存主義とは何か』の出版などに伴い、サルトルを中心として巻き起こった世界的な実存主義ブームによって、後にその主著として高い評価を得ることになる。
このブームの最中、その中心地としてサン=ジェルマン=デ=プレ界隈が多くの知識人や文化人の溜まり場となっていたとき、その思想的中心にいたのがサルトルであり、若きシンボルであったのが15歳年下のボリス・ヴィアンであった。享楽的なバカ騒ぎであると同時に、一方で新しい文学や思想が生み出される大きな渦であった当時のパリは、今もひとつの輝かしい時代として振り返られる。
その後も1980年に肺水腫にて死去するまで、フランスを代表する思想家として大きな影響力をもち、その一方で、カミュ『反抗的人間』に関するカミュ-サルトル論争、構造主義の台頭およびレヴィ・ストロースによるサルトル批判、マルクス主義や共産党への支持をベースにした政治参加、ノーベル文学賞の拒否など、常に注目を集めながら第一線で活動を続けてきた。そして『嘔吐』や『存在と無』はもちろん、多くの作品が今もなお世界中で読み継がれている。
文・内沼晋太郎


