Jean Cocteau


Hipsters file 15
ジャン・コクトー
レーモン・クノーが『オディール』で描いたパリに、確かにジャン・コクトーはいた。しかしクノーとは時を違えながらもコクトーもまた、ダダに反対し、シュルレアリスムと訣別した。だからどちらかというとコクトーは、ボリス・ヴィアンが『サン・ジェルマン・デ・プレ入門』に描いたほうのパリにいた。多くの知識人や文化人が溜まるパリの街角で、若き天才・コクトーは実に奔放にやらかしていたのである。
1889年、パリから20km、サン=ジェルマンの森に囲まれた別荘地メゾン=ラフィットに、クレマン・ウジェーヌ・ジャン・モリス・コクトー(Cle'ment Euge`ne Jean Maurice Cocteau)の名で生まれる。第二帝政下の、いわゆるブルジョワ階級の子として生まれたコクトーは、素人画家であった父ジョルジュ・コクトーに倣うようにして、極めて幼い頃から好んで絵を描きはじめる。しかしその父は1898年に55歳でピストル自殺、この事件は少年コクトーにとって最初の大きな影として深く刻み込まれることとなった。高校生時代に文学に目覚め、詩を書きはじめるが、大学受験に二度の失敗をする。しかし働かざるとも十分な資産に恵まれた彼はそのまま進学を断念し、社交界へと出ていった。
その後の彼の活躍はとてもこの短い文章の中では書ききれない。詩人、小説家、劇作家、画家、脚本家、映画監督――コクトーの人生には、彼の肩書きがこうして多岐にわたるのと比例するようにして、実に多くの登場人物がいる。ロシア・バレエの世界に飛び込んだ彼に「わたしを驚かせてごらん」と言ったディアギレフ、手紙のやり取りで大きな論争をめぐらせた小説家アンドレ・ジッド、バレエ作品に協力を仰いだ作曲家エリック・サティと画家パブロ・ピカソ、その若すぎる死が彼に阿片中毒に陥るほどの衝撃を与えた詩人レイモン・ラディゲ、そしてその中毒から彼を身を挺して救い出したココ・シャネル、その死の知らせを聞いてわずか4時間後に彼自身も死を迎えることとなったシャンソンの大御所エディット・ピアフ。
その他にもニジンスキー、モディリアニ、コレット、マルタン・デュ・ガールなどの著名人、ミシア・セールやアンナ・ド・ノアイユなどのサロンの女性たちなど、名前を挙げだしたらきりがない。彼の歴史はそのまま、そのつど関係を交わした人々との歴史であり、むきだしの才能でしかなかった彼は、多くの年長者や実力者の影響の下に徐々にそのスタイルを確立していった。そして晩年はそのコクトー自身が、多くの若き作家の紹介者あるいはパトロンとして、未来に力を注いでいた。
彼の死から四十五年の年月が過ぎた今年、パリ郊外のミイ・ラ・フォレに記念館がオープンする予定だという。自身の代表作であり、戦後日本で上映された最初のフランス映画『美女と野獣』に主演した俳優ジャン・マレーと共同名義で別荘として購入し、晩年には養子となるエドゥアール・デルミットと住んでいた旧宅である。
文・内沼晋太郎


