Andy Warhol


Hipsters file 8
アンディ・ウォーホル
パティ・スミスパティ・スミスがロバート・メイプルソープと同棲していたチェルシー・ホテルは、様々な文化人が集う場であった。ボブ・ディランが『ローランドの悲しい目の乙女』を作曲し、ウィリアム・バロウズが『裸のランチ』を、アーサー・C・クラークが『2001年宇宙の旅』を執筆し、殺害されたナンシー・スパンゲンとその横で放心状態のシド・ヴィシャスが発見されたそのホテルで、ある世界的なアーティストが、彼の監督する映像作品における代表作を撮っている――映画のタイトルは『チェルシー・ガールズ』。音楽はヴェルヴェット・アンダーグラウンド、出演者はニコやイングリッド・スーパースター。もうお分かりだろうか。監督でありアーティストである彼の名前は、アンディ・ウォーホルである。
ウォーホルの映画はいわゆる実験映画で、この『チェルシー・ガールズ』を除いてほとんど商業的な成功を収めなかった。多くの人にとって、まず思い当たるのはキャンベルのスープ缶であり、マリリン・モンローであり、バナナのレコードジャケットであるかもしれない。しかしウォーホルの本当の功績は、それらのシルクスクリーン作品を見て、そこから感じられるような種類のものではない。
1928年ピッツバーグ生まれ、本名はアンドリュー・ウォーホラ。カーネギー工科大学を卒業後ニューヨークへ移り、『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』などのイラストや広告を手掛け、若くしてすでに商業デザイナー・イラストレーターとして一定の成功をおさめていた。しかし1960年にはその道から一転、ファイン・アートの世界へと移る。1961年には、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描くようになり、後には「ファクトリー」と呼ばれるスタジオを構え、シルクスクリーンプリントを用いてそれらの作品をまるで工場のように量産するようになる。
ファクトリーもまた、チェルシー・ホテルのように、多くのアーティストや若者や同性愛者などが集まる場所になった。壁中にアルミホイルが貼られた銀色の空間には、いつも鍵があいていて誰かがいた。大のパーティ好きであったウォーホルは、有名人や実業家の集まる社交界のパーティに多く出席し、同時に自らも多くのパーティやイベントを企画した。そのパーティで音楽を披露したのが、たまたま知り合ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドであり、ヴォーカルにモデルのニコを迎えてコラボレートさせ、有名なバナナのジャケットを描いた。当時はほとんど売れなかったが、後に伝説的なバンドとして再評価され、今なお聴き継がれている。
その後も、ファクトリーの常連に狙撃されるもなんとか一命をとりとめたかと思えば、「テープレコーダーがぼくの妻だ」といいそれが高じて雑誌『インタビュー』を発刊したり、社交界のお金持ちを募り彼らのポートレートを高額で制作したりするなど、一つ一つを詳細に言及していてはとても尽きないほどに、多くの影響力ある仕事をのこしている。「ウォーホルのような」という形容が、現在までこれほど使われる存在もあまりいないだろう。特にファクトリーに関しては、現代に同じような場所を作りたいと願い、コンセプトに掲げるスペースやプロジェクトが今も後をたたない。もちろん時代のせいもあるだろうが、しかしなかなかそれが現実のものとならないのは、何よりウォーホルという人間の非常に特異なパーソナリティに拠る部分が大きかったということを証明している。ぼくらは今なお、この白髪の変人に憧れずにはいられないのだ。
文:内沼晋太郎


